大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」45(社会部編21) 安富信

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先輩・後輩に次々再会

 この連載を始めて嬉しいことがある。記憶を確かめるために多くの先輩や後輩に会えることだ。ビッグボスの加藤譲さん(73)や「おなかの赤ちゃんが助けてくれた」の中山公さん(73)の2人はもちろん、武部好伸さん(68)はいつも貴重なアドバイスをいただいている。一課担でコンビを組んだ永田広道さん(62)とも何十年ぶりに会えたし、ハワイで犯人を“逮捕”した味谷和哉さん(64)ともこの年末に東京で再会することになった。有難いことだ。その中で、ひとり煩い奴がいる(失礼!)。年に数回会っている後輩の福原幸治さん(59)が飲むたびに「僕の出番はまだすっか?」「もっと(元会社に)遠慮なく書いてくださいよ」などと煩いのだ。

通天閣下「BAR BABY」の有名マスター

で、今回はちょいと、趣向を変えて、最近の場面から入る。11月下旬のある日、天王寺動物園近くの通天閣下の居酒屋で飲んだ。福原さんは一課担の後輩であり、特ダネをよく書いた優秀な事件記者だが、ちょいと行動に問題があり、10数年前に読売を辞めた。後にこの連載でも登場するが、筆者が地方部のデスクをしていた頃、右腕となって助けてくれた記者だ。今は堺市内で塾を経営している。「年収数千万円はありますよ!」と豪語するが、一度も奢ってもらったことはない。その場に、もう一人面白い人物がいた。現朝日新聞記者の市田隆さん(59)だ。早稲田大学を卒業後、読売新聞東京本社に入社。社会部で活躍していたが、朝日新聞に移り、現在、大阪本社にいる。福原さんとは彼が東京本社に出向したときからの友人だとか。

通天閣界隈、まるで昭和時代に戻ったようだ


 市田さんにとって、通天閣下の界隈は、非常に興味深いところだそうで、筆者は「昭和が色濃く残っている」地区とみる。実はこの通天閣下界隈は、記者にとって他社も含めて思い出深い場所で、市内回り記者にとってはある意味「心の拠り所」となっている。現に、その夜にFBで写真を載せてコメントを書いたところ、社内外から反響のコメントが相次いだ。それも、2軒目に行った「BAR BABY」に反応するコメントがほとんど。それも、ここのマスターは有名人だから。御年80歳を過ぎたそうだが、福原さんや久しぶりに行った筆者にも気さくに話してくれ、ビッグボスの加藤さんについては、「髭さん、元気にしてる?」「スル兄はするが虫と呼ばれていたね」などと話してくれた。

動物園回りの記者たちの多くが通ったBAR BABY

 まあ、福原さんにはこの後にたっぷり登場願うとして、今回の締めとしては、「会うたびに、下品な言葉は慎めよ(笑)」と言いたい。昔の話をするたびに、先輩や後輩を称して「あいつはヒラメのおかまやから、アカンわ」と言う。上品に言えば、キャップや上役の言うままで、出世しか考えていない人物を称して彼はこう表現する。ちなみに、この日待ち合わせ時間より早く着いたので、通天閣の真下にある銭湯に入った。驚いたのが、あちこちに貼っている紙だ。「ホモ行為は禁止です。警察に通報します」と。こんなん、初めて見たわ。

まさに通天閣の真下にある銭湯

猟奇的事件のはじまり 連続幼女誘拐殺人

 さて、本論に戻ろうと思ったが、大切な忘れ物があった。この平成の初めの世の中で、日本中を震撼させた事件のことを書かなければならない。警察庁広域重要指定117号事件、いわゆる東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件だ。犯人とされた宮崎勤・元死刑囚は幼女4人を殺害したとして刑が確定。平成20年(2008)6月に死刑が執行された。
事件は、昭和63年(1988)8月22日、当時4歳の女児が誘拐・殺害されたことに端を発する。その後、同年10月3日、7歳の小学1年女児が殺害され、同年12月9日に4歳の女児が殺害され、平成元年(1989)6月6日に5歳女児が殺害される。この年の2月6日に最初の被害者宅に骨片などが入った段ボール箱が置かれ、同10日には「今田勇子」名での犯行声明が朝日新聞東京本社に郵送されるなど、事件は劇場型犯罪の様相を呈し、世間は大騒ぎとなる。7月23日に東京都八王子市で幼い姉妹を狙ったわいせつ事件を起こした宮崎元死刑囚が父親によって現行犯逮捕され、連続幼女殺人事件は解決したが、欧米であるようなサイコパスのような連続殺人が日本でも発生したことで、社会に大きなショックを与えた。この事件はその後の日本における猟奇的事件の始まりであったともいえる。

一連の宮崎事件を報じる読売新聞紙面 

「宮崎勤のアジト発見」東京読売が誤報

 余談だが、マスコミ報道の視点で見れば、集団的過熱取材(メディアスクラム)が多々発生し、これまでの事件でもあった「誤報」も多く出た。その中で最も有名な誤報が、読売新聞東京本社社会部の「宮崎勤のアジト発見」だ。平成元年8月17日、読売新聞夕刊一面トップで報じたもので、「奥多摩山中・小峰峠付近で発見」「自宅から南東に約1.5㌔」「遺体放置場所もこのアジト内」「警察が多数の有力物証を押収」などと続き、アジトのある山小屋付近の地図まで掲載されていた。しかし、捜査本部はすぐに全面否定し、ほどなくして報道内容が全くの誤りであることが判明。翌日には虚偽の内容を掲載したことに関して「おわび」を出した。2か月後には、記事が掲載された経緯を検証した記事を掲載し、「激しい取材競争の中で一線記者が冷静さを失い、断片的な情報を総合する段階で、強い思い込みから不確かな『事実』を間違いのない『事実』と信じ込んだ」(10月15日付朝刊)とした。まさに、「対岸の火事」ではなく、「他山の石」とすべきだったが、、、。

「秘密のアジト」の誤報

男児に生体肝移植、術後285日で亡くなる

 平成に入って大きな話題になったことに、もうひとつ生体肝移植手術がある。平成元年(1989)11月13日、旧島根医科大学第二外科(島根県出雲市、現島根大医学部)で、わが国初の生体肝移植手術が行われた。先天性胆道閉鎖症の男児(当時1歳と4日)に父親が肝臓の一部を提供し行われた手術だが、島根県出雲市という静かな街に多くの報道陣が詰めかけ、大騒ぎとなった。筆者も松江支局勤務時代には、島根医科大に何度も取材に行き、それなりの「特ダネ」を書いたことがあるだけに、感慨深く大阪から様子を見ていた。後輩のN記者やA記者が一生懸命取材をしていると聞いて、密かに応援していたものだ。しかし、男児は翌年8月24日未明に亡くなった。術後285日目だった。その後、京都大学などでも生体肝移植手術が相次いで行われたが、この頃は、長く命を救うことが出来なかった。最近は、臓器の一部ではない移植手術が定着している。(つづく)

国内初の生体肝移植を報じる読売新聞紙面
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