天皇下血、容体報道に全国が一喜一憂
昭和63年(1988)秋、天皇陛下が吐血され、予断を許さない状況となった。大正天皇の崩御に伴い、1926年12月25日に25歳で即位され、太平洋戦争、日中戦争を経て「人間宣言」するなど激動の人生を送られた。その天皇の命が危ないというので、新聞、テレビは大騒ぎとなった。9月19日午後10時過ぎに大量吐血によって緊急入院し、その後、吐血と下血を繰り返した。吐血はともかく、その当時、「下血」という表現は珍しく、毎日のように新聞紙面を飾り、裏の“流行語”となった。ともかく、東京のマスコミだけでなく、日本中が天皇の容体報道に一喜一憂した。東京社会部が中心となって取材を進めていたが、人手が足らないということで、大阪社会部から市内回りのKさんが応援取材に取られた。市内回りは5人となったが、粛々と取材は続けられた。
リクルート事件、掛布引退、阪急がオリックスに
昭和天皇の容体が悪くなったためではないだろうが、この年は様々な区切りの年でもあった。最も世間を騒がせたのはリクルート事件だ。朝日新聞の神奈川県川崎市での不正から始まったキャンペーンが、政界へと上り詰め、自民党政権の深部にまで浸食していた一大疑獄事件である。リクルート社が政界工作に上場前の関連株を政治家や経済界にばらまいて利益を得させていたもので、この年の7月にはリクルート社の江副浩正会長(故人)が引責辞任した。その後も政界への捜査は続いていた。また、3年前にプロ野球で日本一になった阪神タイガースの掛布雅之さんが9月14日に引退を表明。阪急ブレーブスが10月末に、オリックスへの譲渡を発表した。一時代の終焉を迎えていたのかもしれない。
名人刑事が元警視庁警部を逮捕 翌朝「天皇が亡くなった!」
天皇の容体は一進一退を繰り返し、昭和63年は終わった。そして、年が改まった昭和64年1月7日朝。
この日のことは当たり前だが、非常によく覚えている。前日の1月6日のことから書こう。この日午後3時過ぎに、大阪市浪速区の通天閣前の路上で指名手配犯が逮捕された。その1年9か月前の昭和62年4月に神奈川県藤沢市で会社社長の長男(当時8歳)を誘拐、500万円を要求した事件で神奈川県警から身代金目的誘拐、監禁致傷などの容疑で手配されていた元警視庁警部(当時44歳)だ。誰が捕まえたのかが面白い、というか、逮捕したのは大阪府警の名物刑事だった。3時10分ごろ、通天閣下の路上をひとりで歩いていたトレーナー、ジャンパー姿の容疑者と府警捜査共助課の巡査部長ら4人がすれ違った。4人は指名手配容疑者の顔写真を脳裏に刻み付けている「見当たり捜査」の名人刑事だった。「鼻の頭や顔に数カ所あったホクロ」という容疑者の特徴を見逃さなかった。「元警視庁警部の誘拐犯だ!」。背後から声をかけて、近くの警ら事務所に同行し、2時間追及して犯行を認めさせた。
捜査共助課西成分室にいる刑事4人は、全国から近くの「あいりん地区」に流れてきて潜伏している指名手配犯を追いつめる専従班だ。手配犯の捜査は関係先の張り込みや職務質問のほかに、捜査員が顔写真をもとに特徴を覚え込み、町を歩きながら捜査する「見あたり」という独特の手法を取り入れ、前年の1年間で西成、浪速区などで計156人を逮捕していた。大阪府警らしい事件の解決方法だ。それが、筆者とどう関係しているのか? そうですよね、逮捕現場は浪速区だし、捜査共助課担当は府警本部の担当だ。しかし、ネソ回りには、直接事件を担当していなくても、回って来る役割があるのだ。大阪の玄関口新大阪駅が管内ということでもある。この場合、神奈川県警から指名手配されていた容疑者は、藤沢署に護送される。元警視庁警部の誘拐容疑という重大事件だけに、護送に記者が同行取材することになった。午後8時、新大阪駅発東京行き新幹線「ひかり162号」に乗り込む様子を取材し、小田原駅まで着いて行った。藤沢署に護送されるところまで見送り、確か、小田原駅近くのビジネスホテルに泊まった。
翌朝午前7時過ぎ、大阪社会部の泊り明けデスクからホテルの部屋に電話が入った。「そんなとこで、何しとる?」「いえ、護送犯に同行取材して来ました」「そんなことはわかっとる。ニュースを見てないのか!天皇が亡くなった。直ぐに帰って来い!」。新幹線に飛び乗って大阪へ帰った。すぐに市民の声を拾った。それから世の中から歌舞音曲が消えた。時代は「平成」になった。「平成おじさん」(後の小渕総理=故人)だけが有名になった。
自粛自粛…歌舞音曲も「お笑い」も消えた
昭和から平成に時代が変わった。世間では自粛自粛で歌舞音曲だけでなく、テレビからはお笑い番組も消えた。今から考えると凄く怖い時期だった。コロナ禍でもそうだったが、どうやら日本国民というのは、右から左まで前も後ろも「同調圧力」によって集団で哀悼の意を示すのが好きなようだ。厄介な人種である。平成から令和に代わる時は、その時のこともあって割合と粛々と進んだ。もちろん、上皇がお元気こともあるのだけれど。
経済的に見れば、この時期はそろそろバブル経済が膨れて来た時期である。本当は世の中挙げて、バブルを謳歌したかったのであるが。
ついに府警捜査一課担 「生き残れるのは1人か2人やな」と脅す部長
筆者にとっては、春から捜査一課担当が約束されていた。新聞記者になって最大の夢だった「事件記者」が、いよいよ実現する。しかし、所轄回りで、その厳しさを垣間見ていたのでそんなに高揚感はなかった。ここで少し、当時の事件記者に対する新聞社の評価というか、位置付けを振り返ってみよう。
一部に異論はあるでしょうが、大阪の新聞社のスター軍団はやはり社会部だった。特に、今筆者が書いている昭和から平成にかけては。今となっては徐々にそのスター性はなく、花形でもなくなっているが。その中でやはりその主役は事件記者だ。事件記者にも2通りある。一つは大阪府警を中心としたサツ回り、もう一つが大阪地検や大阪地裁を回る司法担当だ。どちらがより花形か? それは簡単に言っていかに大きな事件をやるか、に尽きる。そういう意味では、当時の大阪社会部では圧倒的にサツ回りが中心だった言える。司法は、たまに大阪地検特捜部が政治家や経済事犯で大物を逮捕することがあるが、東京地検特捜部に比して弱い。その点、事件の派手さでは大阪は東京にも負けていない。それも、グリコ森永や朝日新聞襲撃事件のように前代未聞のアッと驚く事件が多かった。必然的に大阪社会部の花形は府警回りになる。その中でも4番バッターと言われたのが捜査一課担(いっかたん)だ。
府警回りと市内回りのサツ担当と社会部長が懇談する会が年に何度も開かれていた。「鉢巻おじさん」の異名があった故T部長の名言を思い出した。その年は府警・市内のサツ回り14人のうち、昭和57年入社の記者が7人もいた。T部長は言い放った。「あと数年もすれば、7人のうち生き残れるのは1人か2人やな」。少しわかりにくいたとえだが、要するにそれほどサツ回りは重要ポストだということだ。失敗をしたり抜かれたりすると「すぐに外すぞっ!」という脅しなのだ。それを聞いて筆者は震え上がった。確かに、生き残ったのは2人だったような気がする。以前にも書いたが、市内回りは当時5人。府警が、キャップ、サブキャップに一課担3人、二課担2人、四課担1人、防犯・交通担1人の計9人だった。司法担当が3,4人。大阪府庁、大阪市役所がそれぞれ3,4人だった。100人以上もいた大所帯の社会部の中で、サツ回りが肩で風を切って歩いていた。筆者もネソ担の初めごろは、ええ格好をしていた。しかし、一課担と一緒に取材したり、たまに二課担の応援をしたりするうちに、その恐ろしさが分かって来ていた。年が代わったころには、憂鬱な気分になっていた。(つづく)
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