憧れのサツ回り 曾根崎署の記者室へ「出勤」
さあ、憧れのサツ回りだ。昭和63年(1983)3月15日が異動日だったと記憶する。当時の大阪読売社会部の大阪市内回りは6人。梅田の曽根崎署を根城として天満、大淀、淀川、東淀川の5署を担当するネソ回り(市内キャップ)と南署を中心として東、西、大正の4署を担当するミナミ回り(サブキャップ)、城東署を中心に都島、鶴見、旭、東成の5署を担当する城東回り、此花署を中心に港、大阪水上、西淀川、福島の5署を担当する港回り、そして、動物園回りと呼ばれ、西成署を中心に浪速、住吉、阿倍野、住之江の5署を持つ西回り、そして天王寺署を中心に東住吉、平野、生野の4署を担当する東回りだ。
ネソ回りは大阪一の繁華街とビジネス街を持つ大阪の入り口、ミナミ回りは南署に記者室があり、演劇場などを多く持つ繁華街が担当、動物園回りは、天王寺動物園内に記者室があり、大阪市内の南部を管轄する。港回りは文字通り、大阪港を持つ。城東回りは比較的住宅街が多い。という風に、それぞれの持ち場には特性がある。6人の中で一番年長の筆者はネソ回り、1年下で京都支局府警キャップから社会部に上がったKさんはミナミ、2年下のMさんが城東、3年下のNさんが港で、同じく3年下で松江支局時代の後輩のTさんが動物園東、京都支局で一緒だったHさんが動物園西回りとなった。
ここで、特ダネを書いて、次のポストに行くための“新人たち”の正念場だ。事件事故はもちろん大事だが、街回りといわれるだけに、街ネタという話題モノも大切だ。将来を見据えて、サツ回りに力を込める者、話題モノに力を注ぐ者、それぞれだ。伝統的には、ミナミ回りは府警本部で捜査二課担当に進む記者が多く、動物園回りからは捜査一課担当になる記者が多かった。ネソ回りは、一課担、二課担、四課担と方向性はそれぞれだったが、筆者は事件の性質上と性格から一課担に照準を合わせていた。もちろん、曽根崎管内は大阪市の玄関口なので、話題モノ原稿も多く書いた。
吹田通信部から転出したので、住居は吹田市内の賃貸マンションに転居し、基本的には毎朝、バスと地下鉄を乗り継いで曽根崎署の2階にある記者室に午前8時過ぎに“出勤”した。他の4署には警戒電話をかけて何もなければ、副署長と雑談した後、3階にある刑事課に顔を出し、刑事課長と雑談する。ここで、ラッキーだったのが、刑事課長のIさんと非常に馬が合ったことだ。さらに、以前書いたように、その前の年のクリスマスの頃に、タクシー運転手への”暴行疑惑事件“で、取り調べを受けた刑事2人が顔を覚えてくれていて、からかわれながらも、気さくに話しかけてくれ、刑事課回りは比較的友好的に進んだ。そんな風に始まったサツ回りだったが、突然、「特派員」になった。
上海列車事故 現地へ飛ぶ
3月24日午後2時20分(現地時間、日本時間1時20分)ごろ、中国・上海市郊外で、蘇州発杭州行きの急行旅客列車が長沙発上海行きの急行列車と正面衝突、脱線転覆するなどして、修学旅行で上海を訪れていた私立高知学芸高校の生徒26人と引率教諭1人が死亡、36人が重軽傷を負う事故が起きた。曽根崎署から社会部に上がると編集局は騒然となっていた。外国語大学で中国語を専門としていた1年先輩のMさんが現地に電話を架けていた。「なんか、ウエーイと言っているで」と受話器を持って周囲に聞いた。「それ、英語でハローの意味でんがな」と失笑が漏れた。ドタバタだった。
大阪本社管内の高校生が巻き込まれた大事故だけに、社会部は現地に記者2人とカメラマンを派遣することを即決。別室に数十人の記者が集められ、遊軍キャップのKさんが「パスポートを持っている者は?」と問いかけた。おっちょこちょいの筆者は「その場でパスポートを持っている者」という意味で言ったKキャップの言葉を誤解して思わず手を挙げてしまった。「すぐにパスポートを出せ」と言われ、「家にあります」と答えたが、他の記者たちは行きたくない様子だったので、パスポートと着替えを取りに帰るよう指示されタクシーで往復。5つ先輩で府庁担当の太田一水記者と写真部の奥村宗洋カメラマンの3人ですぐに、大阪空港から福岡空港に飛んだ。ここでキャンセル待ちをかけたが、空きは出そうになく、長崎空港に転戦して何とか乗り込み、夜遅く上海空港に着いた。福岡空港では、同じようにキャンセル待ちの記者が多くいて、その中に、松江支局時代の1つ下の共同通信のO記者の姿があった。
掴み金をそれぞれ50万円ずつ持たされ、ビザは? 上海空港に着けば何とかなる!という感じで飛び立った。上海空港には怪しげな旅行会社員を名乗る中国人が待っており、ビザ発給の手続きに30万円を要求した。3人とも「高いな」と思ったが、言い値を払った。そこから読売新聞上海支局に挨拶に行き、支局長のHさん夫妻と会った。夜も遅いので簡単な打ち合わせをしてホテルへ。当時、上海はホテル建設ラッシュだったが、すごく古いホテルに泊まった。
凄惨な現場で遺族取材
翌朝から支局で取材を開始。支局の助手Cさんは日本語が上手で、中国語をほとんど話せない3人の通訳を買って出てくれた。さて、そうは言っても、何の取材から始めればいいのか? 事故発生から2日目、まずは事故現場へ。想像以上に悲惨な現場だった。急行列車同士の衝突とあって、高校生たちが乗っていた2両目に別の急行列車の3両目が食い込むようにぶつかり、高校生たちの車両が大きく持ち上がっていた。現場に駆け付けた遺族の声を聞く辛い仕事だった。その夜、簡単な通夜に出てまた取材。こうして聞いた声を大阪本社に送った。
そうして送った文章に初めて、「特派員 安富信」と出た。遺族の方々には申し訳なく不謹慎だが、名前が出たことが嬉しかった。しかし、翌日からは何を取材しよう。遺族たちは遺骨を抱えて帰国した。太田取材班キャップは事も無げに言った。「安富、お前、市内回りだろ?だったら市内を回れよ」。病院にはまだ多くの学芸高校生たちが重軽傷を負って入院していた。その彼らを一室一室回って記事を書いた。「あっという間のことで、何も覚えていない」「ドーンと大きな音がしたかと思ったら、体が持ち上げられた」。事故の瞬間の生々しい声を書いた。数日後、助手のCさんを伴って、鉄道局の偉いさんとの単独会見に成功した。急成長する上海の鉄道事情は過密ダイヤで事故が起きたのが不思議ではなかった。
数日だったか1週間くらいだったか、そんな日々が続いた。H支局長夫妻とはずいぶん仲良くなった。可愛い双子の女の子がいた。美味しい中華料理にも連れて行ってもらった。H支局長は東京本社国際部の特派員だ。この事故には当然、東京本社からも応援取材が来ていた。社会部員だった。しかし、彼は、大阪管内の事故だという認識で、ほとんど取材をしなかった。記事も書かなかった。つまらない事だが、取材費として100万円持ってきたという。小耳に挟んだが、上海市内の観光旅行に行ったという。H支局長夫妻は憤慨していた。
上海でも街ダネ探しへ
現地の取材は一通り済み、そろそろ本社から帰国命令が出るかなと思った。ところが、社会部長のTさん(故人)は太田キャップに意外な一言を放った。「しばらく上海に残って取材をしてくれ」と。聞けば、来月から国際夕刊面がスタートするから、その初回に上海の連載を書けという。T社会部長は、浅黒く顔色は悪く、デスク時代張り切ると鉢巻をして原稿を見たといい、「鉢巻おじさん」のあだ名が付いていた。張り切っているんだろうな。しかし、さっきまで、列車事故の惨事を書いていた特派員が1か月以上後とは言え、同じ記者が「ハイ、上海!」といった高度成長を見せる上海の街や人をルポタッチで書けというのは、不謹慎なんじゃない? と取材班の面々は思った。しかし、そんなことを斟酌してくれる社会部ではなかった。翌日から当に、市内回りのような街ダネ探しが始まった。(つづく)
コメント