市の広報課員が記事を書いて提供!
ほんで、戻ってきました。吹田通信部。この連載のファン(意外に結構いるのですよ。笑)のお一人、防災研究者のS田さんから質問がありました。びっくりですね。突然ですが、これからこの連載は双方向となります。素朴な質問を紹介します。「通信部って、住居と仕事場が一緒なんですか?」(S田さん)あっ、ごもっともな質問です。しばらくは、ある意味、ベタな通信部記者の「優雅な仕事ぶり」をお報せします。高校の後輩ISさんも、どしどし質問してください。
で、話は戻って、とベタな書き方したくないけど、「閑話休題」という便利な言葉だと思って使っていたら、先輩の武部好伸さんから、「閑話休題の使い方、間違ってまっせ」と来たので、じゃあ、本題に戻るのではないけど、ちょっと真面目だけど、緩い話題に転じるときはどうしたらええのですか? と聞くと、武部さんもあんまりいい答えないようでした。なんや!ということで、この連載は、視聴者参加型の番組になりました。今から。怖いよ、仮名やなしに突然、実名で登場してもらいますよ。
そうですよね? 元々、新聞記者がどんな生活をしているか、興味もないのに、「通信部記者になった、バンザイ!」なんて書かれても、わからないですよね。大阪読売新聞の誇る事件記者・加藤譲さん(73)にはしばらく休んでいただき、平凡な記者の一日に戻りましょう!
昭和62年(1987)5月。朝日新聞阪神支局襲撃事件が起きても、辻角公美子ちゃんの遺骨が見つかっても、お呼びが掛からなった筆者は、久しぶりにのんびりした記者生活を吹田市で始めました。同市千里山の高級住宅街の片隅に建っていた吹田通信部は単に住居で、仕事場は吹田市役所の記者室でした。だから、一応、朝10時前には吹田市役所2階にあった記者室に通勤してました。ここから、文体を変えます。
一言で言って、吹田市記者クラブには驚いた。これは、今ではこんなことやっていないだろうし、日本の他の市町村でこんなことをしている自治体はなかった。何が?と思われるだろうが、要するに、記者が書くべき記事を、市役所の広報課員が取材して記事を書いて記者室加盟メンバーに提供する。信じられないでしょう?それが、この記者室でやっていた。というか、後でわかったのだが、大阪府内の自治体ほとんどで、この方式が行われていた。詳しくはわからないが、東京本社管内では絶対ないだろう。
楽したい先輩記者が市職員を「鍛える」
千里山にある通信部を概ね9時過ぎに出て、阪急千里山駅から吹田市役所の最寄りの吹田駅へ。10時前には吹田市役所の2階にあった記者室に出勤する。持ち場警察の吹田署に警戒電話(昨夜から朝にかけて事件事故がなかったかを確認する)をして何もなければ、一日暇なことが多かった。ここには、読売の他、朝日、毎日、産経、共同通信の5社が常駐し、他愛のない会話を重ねていた。昼ご飯を一緒に食べに行くこともあるし、夜の飲食を共にすることもある仲良しクラブだ。広報課員が書いた記事をほぼ丸写しして、書いた原稿用紙と写真(これも広報課員が撮った)をバック便と言われる袋に入れて、それを阪急電車の車掌さんに託し、梅田駅でアルバイト君が受け取るというアナログなシステムだった。この記事はほとんどが、大阪府内版(北摂、枚方、東大阪、河内、泉州、大阪市内に細かく分かれていた)に掲載される。以下の2つの記事は、広報課ネタだ。
先輩記者たちが、自らを楽にするために十数年かけて“鍛えてきた”らしいが、確かに楽でいい。記者室で寝ていたら、記事を書いて持ってきてくれるのだから。筆者も当初はこれに浸った。しかし、「そんなら新聞記者要らんやん!」と気づいた。
「阪大の開かずの門」「2カ月でクラス替え」全国版に
じゃあ、府内版の記事は広報課に任せるとして、全国版(本版)に載る記事を探そう! どこを回ろうか? 吹田通信部管内には大阪大学、関西大学、万博公園内に国立民族学博物館がある。こうした所を中心にネタを拾おう。そして、京都支局で教えられた「記事を擦(こす)る」技法を使って本版にチャレンジした。その第一弾が左下の記事だ。
大阪大学吹田キャンパスに開設21年目の昭和62年(1987)春に初めて正門が完成したが、なぜか1か月以上も“開かずの門”になっている。それは車が学内を通り抜けした場合の対策がまだないなど、多くの事情があって「開門のメドがたたない」、学生たちから疑問の声が上がっている、と言う記事だ。なんとも他愛のない記事だが、夕刊の第2社会面のトップ記事に。まあ、「擦る」記事の典型だ。自画自賛だが目の付け所が良い。阪大に挨拶がてら行った時に、門が閉まったままだ、何で?という素朴な疑問から取材を始めたら、「面白い」ネタだった。
続いて、吹田市内の小学校で校区内のマンションや団地が次々に建ち、児童数が年々急増しているため、1学期の途中、4月に新しいクラスになったばかりの4年生が、1クラス増加させることになり、2か月でクラス替えになったというもの。これも他愛のない記事だが、ちょっと面白い。大人の事情で振り回される子供たちがちょっとかわいそうだ。夕刊の社会面トップ記事だ。
調子に乗った筆者は本版記事を連発する。関西大学の経済・政治研究所が「新人類」をテーマに大阪市内で産業セミナーを開催し、定員を大幅にオーバーする受講者が詰めかけた。同大学の広田君美・社会学部教授(社会心理学)が「新人類は強い磁力に集まるパチンコ玉人間」や「仕事に対しても出世や金銭よりもヤリガイを求める」、「じゃあ、まあ、いいかでくっついていく“ジャマイカ人間”」などとユーモアたっぷりに解説して会場を沸かせた。これも、関西大学のセミナー告知チラシを見ていて、「オッ、面白そうだ」と現場に出かけて取材をして、予想以上に面白かったので本版にチャレンジしたら、朝刊社会面の真ん中に大きく掲載された。「新人類」という世相を背景に、彼らを持て余していた経営者たちが押しかけたのだが、いずれも、ちょっとした発想の転換で「面白い!」と感じたことで、記事が生まれた。筆者は調子に乗った。
あこがれの遊軍記者へスタートダッシュ!
転勤数か月で、何本も本版記事を打ち出し、筆者は「社会部」をなめてしまった。楽だし、毎日が楽しかった。この調子で行けば、大阪市内回り(サツ回り)→大阪府警記者クラブ担当→遊軍という道筋が見えた。このころ、筆者の人生設計は、憧れの社会部に上がり、軌道修正された。本当に生意気だったと思うが、描いた成功への道は、最終的に社会部遊軍記者になることだった。前にも書いたが、大阪読売社会部の「華」は遊軍記者だ。黒田軍団ももちろん、この遊軍記者たちだった。遊軍がなぜ華か。自分で考え企画した記事が社会面に大きく掲載される。連載記事や話題モノ記事が自由に掲載されるからだ。概ね10人前後で、この大阪読売の記者の頂点でもある遊軍になるためには、通信部、支局、サツ回り、府警や司法、府政、大阪市政、労働、鉄道、空港などを経験したベテラン記者だけだ。
その中でも、最短かつ最強のルートが府警記者室だと、筆者は照準を定めた。そのためには、吹田通信部を1年で切り上げ、サツ回りを経て府警担当、それも大阪社会部でかつて「4番バッター」と言われた捜査一課担当、一課担になることだと。そのスタートダッシュが上手く切れたと思った。ツキもあった。
関大の広田教授の「新人類」セミナーの記事に対して社会部直通電話にクレームが来た。広田教授がセミナーの中で、新人類も特徴として「じゃあ」「まあ」「いいか」の“ジャマイカ人間”だと表現したことに、音楽のレゲエを通じてカリブ海に浮かぶ島国ジャマイカと友好を深めていこうというグループからの抗議だった。電話を受けた記者から筆者に連絡が入り、ともかく代表と会うことになった。最初ははっきり言って憂鬱だった。記事に対して抗議を受けることはたまにあるが、概ね友好的にはいかないからだ。24歳の時にレゲエのリズムのとりこになったという27歳のデザイナーさんと、25歳のDJさんに大阪市内の喫茶店で会った。「コロンブスが発見した島ですよ。レゲエは日本の盆踊り。ジャマイカには今の日本が忘れ去ったものがいっぱいあります」と熱く語る2人とすっかり仲良くなり、数か月後の9月下旬に、彼らと河内音頭がジョイントする公演がなんば花月で行われるという記事に発展した。まあ、「災い転じて福となす」の見本だが。
ジャマイカでも書いた「?」(クエスチョン)という軽いコラム欄は、氏名の1文字が入る、ちょっと名を売るのにお手頃な記事で、積極的に書いた。お得意でない文化財記事も書いた。関西大学教授絡みで。(嫌な記者だな!何でも食いつく)ともかくも、機嫌よく通信部生活を送っていた。余談だが、この年に起きたことで、印象的なことを紹介しよう。
上記のように、歌人俵万智さんの処女詩集「サラダ記念日」が発売1か月で10万部売れる新人類短歌が大ブームとなり、7月17日には、国民的人気俳優の石原裕次郎さんが癌で逝った。世界の大スターマイケル・ジャクソンさんの公演が9月12日夜、東京の旧後楽園球場で開幕し、3万8000人が魅了された。NTTの携帯電話がヒット商品となり、国鉄が民営分割され、利根川進博士がノーベル医学・生理学賞を受賞。そして、ファッションではボディコン、ワンレンが大流行し、バブル経済が花開いた。(つづく)
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