大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」25(社会部編1) 安富信

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社会部吹田通信部、隣はプールつき邸宅

やっと、念願の大阪本社社会部に上がった!入社9年目の5月1日。正式には社会部豊中支局吹田通信部。持ち場は吹田市と隣の摂津市。担当する所轄警察は吹田署だけだった。豊中支局はいわゆる北摂と呼ばれる大阪府北部、豊中市、池田市、箕面市、吹田市、茨木市、摂津市、高槻市、島本町、豊能町、能勢町の7市3町を管轄する。ここを昭和62年5月1日当時は、故千原洋俊支局長とその部下で真田南夫記者、大阪空港担当のTさん、高槻通信部が後に編集局長になるTさんと筆者の計5人が受け持った。大阪府内では比較的穏やかで大阪空港や大阪大学などがある学研都市と言える。吹田通信部は、今はもうないが、当時は吹田市の高級住宅街・千里山の真ん中にあった。昔、読売テレビのお偉いさんが運転手付きで住んでいた住宅で1階に車庫があり、2階に居間などがあった変な間取りだった。隣の家は平屋ながら庭にプールがあり、2歳前のおしゃまさんの娘は「お父さん、どうしてうちにはプールがないの?」と聞いた。ここで妻と娘と3人で暮らした。結婚して初めて家庭サービスに勤しんだ時期でもある。

「全舷」翌日、朝日新聞阪神支局襲撃

確か、5月2日に社会部の全舷(この連載の2回目で書いたが、旧海軍の用語で乗組員の半数が上陸して休むという「半舷」にちなんで、休刊日に社会部員が泊りがけで宴会をした。新人研修時に飛び入りで参加して以来8年ぶりだった)が、箕面観光ホテルで開かれた。5月1日付で社会部に上がった高槻通信部のTさん、堺支局のM谷さん(2人は2年後輩)、市内回りの1年先輩のN山さん、阪神支局の3年下の佐藤浩さん、それに2月1日付で先に社会部に来ていた真田さんと筆者の計6人が新人としての歓迎会も兼ねていた。
今から考えると、パワハラとしか思えないゲームをやらされた。5、6枚重ねた座布団に座り、1枚ずつ抜いていき、誰が一番早いかを競った。要領の良い筆者は一番だったが、鈍くさい(ごめん)真田記者は座布団から転げ落ちて失笑を買ったのを覚えている。とにかく夜通しで酒を飲んで騒ぎ、翌3日朝にお開きとなり、確か昼から社内野球大会に参加して夕方、吹田通信部に帰った。1987年5月3日夜、と言えば、記憶に残っている読者も多いだろう。そう、その夜の8時過ぎに、朝日新聞阪神支局襲撃事件が起きた。
午後8時15分ごろ、兵庫県西宮市の阪神西宮駅近くの朝日新聞阪神支局に散弾銃を持った男が押し入り、夕食の鍋をつついていた記者3人に2発発射し、小尻知博記者(当時29歳)が死亡、犬飼兵衛記者が重傷を負った。憲法記念日の休日の夜、新聞社の支局に押し入って問答無用の凶弾を浴びせかけた前代未聞の凶悪事件だ。警察庁広域重要指定116号事件。一報を聞いた時、背筋が凍るような思いをしたことが蘇る。普通なら社会部員全員呼び出しの大事件なのに、何故か筆者は呼ばれなかった。社会部に上がったばかりだから期待されていなかったのだろうか。一方、佐藤記者は神戸支局から西宮通信部に転勤してまだ3日目。「挨拶回りもままならず、散々でしたよ」と当時を振り返る。この事件は関連事件を含めて極めて残念ながら、2003年に完全時効を迎えた。そして翌日、またも大事件が発覚した。

小尻記者が凶弾に倒れた憎むべき犯罪。朝日新聞阪神支局襲撃事件
社会面トップ記事は朝日事件続報、左肩は公美子ちゃん事件

その翌日、不明女児の遺骨発見

今度は、その年の1月22日に誘拐されて行方不明だった小学4年生辻角公美子ちゃん(10)と見られる白骨死体が4日午後2時過ぎに豊能町の林の中で見つかった。豊能町は豊中支局管内。千原支局長と真田記者は当然呼び出され、一課担当記者たちと遊軍記者は現場に向かったが、隣接する通信部なのに筆者はまたも、呼ばれなかった。後に知ったのだが、この日夜、伝説の男が大活躍した。

公美子ちゃんの遺体発見を伝える読売新聞

「かい人21面相の影を掴んだ」伝説の記者

ここからは、しばらく筆者の体験談から離れたい。この伝説の男の記憶と体験話に移る。筆者が大阪読売で唯一のビッグボスと尊敬する加藤譲さん(73)。加藤さんは2日夜の全舷で幹事を務め、盟友の故津田哲夫さんと2人で司会進行しながら、「さくら~、さくら~♪♪」と2人で歌って踊り、宴会場を爆笑の渦に巻き込んだ社会部の名物記者。ひょうきんで無茶苦茶面白い人物だが、その実体は大阪読売新聞が誇る事件記者だ。グリコ・森永事件を生涯かけて追い、この事件を描いた映画「罪の声」の原作者・塩田武士に、「かい人21面相の影を掴んだ、執念の男」、と評され、NHKスペシャル「未解決事件File.01グリコ・森永事件」でも事件を追う執念の記者として描かれている。口の周りを濃い髭で覆われているのが特徴で、彼をテレビ番組では上川隆也が演じたので、「カッコ良すぎですよね?」と冷やかすと、「上川隆也もまだまだやな」と真顔で言った。
公美子ちゃん発見の夜の武勇伝は、本人から何度も聞かされた。公美子ちゃんの遺体らしい白骨体が山中で見つかったが、その日のうちには、公美子ちゃんとは断定されなかった。あくまで「公美子ちゃんとみられる死体」だった。それを翌日の紙面1面トップ記事で「公美子ちゃんの遺体か」と強く打ち出せたのは、加藤さんの果敢な取材だった。白骨遺体が高槻市にある大阪医大で解剖されるのを聞いた加藤さんは、立ち会う大阪府警科学捜査研究所長を待ち伏せ、専用車で府警本部に報告のため戻るのを、追跡。国道171号線八丁畷交差点先で、加藤さんは車の前に回り込むように指示した。驚きながらも加藤さんのそんな言動に慣れていた運転手は急発進して前に回り込んで急ブレーキをかけた。専用車は止まった。飛び降りた加藤さんは後部座席の所長に叫んだ。「公美子ちゃんでんな!」。びっくり顔の所長は頷いた。「決まりや!」。社会部に直通電話をかけた。
この人の逸話はこれだけではない。名言、迷言も多いが、それはぼちぼちと。とにかく、これからは、筆者が社会部に上がる前の大事件と社内事情について書かなければならないので、恥ずかしながら加藤さんにインタビューした。ビッグボスとは35年以上の付き合いになるが、面と向かってインタビューするのは初めてで、やりにくいものだった。それでも6月上旬、ポートアイランドにある神戸学院大学の筆者の研究室に来てもらい、3時間ほど話を聞いた。その後、三宮の居酒屋で軽く一杯やりながら続きを聞いた。こちらの方が緊張感なくいい話が聞けたのだが。ともかく。

パチンコ店主惨殺、「グリコ森永」終結宣言、日航機墜落が同じ日に

当然、昭和59年(1984)3月18日に始まったグリコ・森永事件が話題の中心だが、筆者はあえて、翌年8月12日から聞いた。なぜなら、この日の未明、大阪市東住吉区でパチンコ店主が惨殺され、午前中にグリコ・森永事件の犯人グループから犯行終結宣言が届いたという大阪府警捜査一課担当記者(以後、一課担と称する)にとって大車輪で働く一日だったうえに、夜、日航機が御巣鷹山に墜落したからだ。元一課担で遊軍記者だった津田記者や、後に筆者の無二の先輩となる田山一郎記者が御巣鷹山に向かった、「一課担の最も長い一日」と思い込んでいた。しかし、加藤さんの話を聞いて少し違っていた。田山さんは一課担だと思っていたが、市内の所轄回り(動物園担当)だった。
ともかく。12日未明に110番通報があった大阪市住吉区のパチンコ店主強盗殺人事件で、加藤さんら一課担、田山記者が早朝から現場で取材し、一課担キャップの加藤さんが読売新聞専用のメモ帳(緑色)に原稿を書き、東住吉署から本社に勧進帳で吹き込もうとした時、本社からグリコ犯終結宣言が届いた、との一報を受けた。加藤さんはおっとり刀で府警本部に戻り、グリコ犯終結宣言の本記記事を1面に、サイド記事を社会面に書いた。強盗殺人事件の原稿は田山記者に託された。ところが、加藤さんの字は社会部内でも“3筆”と言われるくらい悪筆だった。一行も読めない。田山記者の額から汗が流れ落ちた。横にいた一課担のIさん(5期先輩)が「貸してみろ」と横取りして苦も無くスラスラと読んだ、という嘘のような本当の話。この十数時間後、本社ヘリで約400キロも離れた群馬県の御巣鷹山に向かうとは、この時、夢想だにしなかっただろう。

退職後も捜査関係者を「夜回り」

グリコ・森永事件に話を戻そう。
事件は昭和59年3月18日夜、江崎グリコ社長江崎勝久さんの誘拐で幕を開けた。現金10億円と金塊100キロを要求した犯人グループは、江崎社長が自力で脱出した後も、グリコへの放火や脅迫を続け、犯行をエスカレートさせた。かい人21面相を名乗って挑戦状や脅迫状を森永製菓やハウス食品などの企業や新聞社などに送り付け、スーパー店頭の菓子に青酸カリを混入させる凶悪事件で、警察を揶揄し世間を挑発し、マスコミがこれを大きく報道したため「劇場型犯罪」となった。しかし、この事件も2000年2月12日にすべての犯行の完全時効が成立した。歴史に禍根を残す未解決事件となった。
加藤さんは、読売新聞を退職した今も、捜査関係者に夜回りを続けている。何が彼をそうさせるのか? (つづく

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