大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」15(京都編1) 安富信

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府警キャップ「面構え」で選抜

昭和60年(1985)3月15日、6年間働いた松江支局を離れ、京都支局(現総局)に赴任した。学生時代に遊んだ京都の街だけにワクワクしていた。この街では「サツ回りをしたくない」というのが本音だった。
大阪読売新聞社管内で圧倒的に事件が多いのは、神戸支局と相場が決まっていた。京都はどちらかと言えば、大学や宗教、文化の香りが高く、そんなに長く勤務しないつもりだったから、それらを経験したい。松江時代末期に初めて転勤希望を聞かれ、①社会部②京都支局③神戸支局と出したら、第2希望が通った。2年上の先輩Wさんは黒田清社会部長(当時)に一本釣りで直に社会部に上がったが、豪傑先輩Mさんは神戸支局、黒縁丸眼鏡のぽっちゃりKさんは豊岡支局を経て神戸へ転勤していた。
赴任初日の支局の場面は昨日のことのように覚えている。T支局長(ちなみにこの方は当時のT編集局長の弟で豪放磊落な性格を自負していた)がこの春に京都支局に転入してきた記者3人を並べた。「俺が直接見て、京都府警担当キャップを決める」。原爆記者で鳴らした広島10年の藤原茂さん、日経から途中入社で筆者より2年後輩だが1つ年長の松本敦至さん(故人。彼とはいろいろあったし、今後登場も多いので、松ちゃんと書く)と私。
心の中で「サツ回りは外して」と願っていた。T支局長は藤原さんを指さして言った。「藤原の面構えが気に入った。京都府警キャップだ。松本はサブ。安富は大学」。心の中でガッツポーズ。藤原さんは岸和田出身なのに広島弁がすっかり板につき、任侠映画「仁義なき戦い」に出てくる怖いお兄さんのようだった(すみません、藤原さん。愛読してもらっているのに)。松ちゃんは「シルビー」とか「ロビー」と自称し映画俳優気取りだった。事実なかなか男前で歌も上手かった。高知から転勤してきたNさんを加えて、京都府警回り3人衆だった。なかなか壮観だった。

読売京都支局の後の現在のビル(木屋町御池)
徒歩1分の京都市役所

写真部の暗室は霊安室

ところで、天下の読売新聞京都支局はどこにあって、どんな建物だったのか? ライバルの朝日新聞京都支局は、京都市役所の西、御池通に面した10階建ての立派なビル。対して、わが読売は同じ御池通ながら京都市役所の東、京都ホテルの東隣の2階建ての古いビル。聞くと、新聞社の支局になる前は病院だったそうで、1階の編集室の奥の霊安室が写真部の暗室になっていた。2階に会議室兼応接室と野戦病院のような寝室(2段ベッドが5つほど並んでいた)があった。
余談だが、神戸支局も病院跡の建物で、1階に宿直室があり、2階に編集室、3階には日本間の会議室があった。ここで新人記者が数か月も寝泊まりすることがあり、3階には幽霊が出るとの“都市伝説”があったとか。朝日の神戸支局は「朝日会館」で映画館が併設されている、今も。ちなみに京都も神戸も今は立派な「読売ビル」になっている。

デスクは黒田軍団の元右腕

さて、筆者のその後の読売人生で大きな影響を与えた人がこの支局にいた。斎藤喬氏(故人)だ。黒田清氏率いる黒田軍団の元右腕とも、3傑の一人とも、四天王とも呼ばれていた。その彼がこの春の人事異動で京都支局次席として赴任した。いわゆる「黒田軍団の崩壊」といわれた人事異動で、K氏は神戸総局、S氏は阪神支局のそれぞれ次席で。猛禽類を思わせる風貌のK氏も後に神戸に転勤となる。黒田氏の懐刀と言われた現フリージャーナリストの大谷昭宏氏を除いて地方支局に飛ばされたのだ。
筆者にとっては有難い人事だった。黒田軍団の構成員に直接教えを乞えるのだから。事実、斎藤氏は優秀でかつ強引でユニークな取材方法を伝授してくれた。じゃがいもが高級なスーツを着ているような人物だったが、本人は至って二枚目気取りだった。しかし、声がかすれて聞こえ辛い。社会部時代に交通事故で瀕死の重傷を負い、奇跡的に一命を取り留めたが、声だけが元に戻らなかったらしい。「ヤ、ス、ト、ミ、くん」と地獄の底からのような声で呼ばれ、ときおり、「ヒーヒー」という異音が混じった。当時流行っていたスターウオーズのダースベーダーのような発声だ。本人は「昔は美声だったんだ」と言うが到底信じられない。
斎藤氏は、若い記者たちに特ダネを書かせ、それを土産に本社社会部への復帰を本気で考えていた。その“下心”はすぐにわかったが、まあいいや!と考えていた。徐々に“取材の誘い”が来るのだが、とりあえず、大学の話に戻ろう。

京大時計台の記者クラブ、本庶教授も研究発表

当時、京都の大学担当は京都大学の時計台の中にある大学記者クラブにたむろしていた。今は百周年時計台記念館となって記念ホールやサロン、歴史展示室、レストラン、ショップなどが入るシンボリックな建物になっているが、当時は、2階に京都大学総長がいる部屋や広報課があり、その向かいに記者室があった。地元京都新聞の記者が3人、朝日、毎日、読売、産経、NHK、共同が1人ずつ詰めていた。窓際に麻雀台があった。

現在の京都大学百周年時計台記念館
同入口

京都大学だけでなく、京都市内のほとんどの大学広報から連絡が入り、広報資料のFAXが送られたり、この部屋で発表したりした。同志社、立命館、京都産業、竜谷、などなど。京都大医学部の有名教授が難しい学会発表の事前レクなどにも来た。2018年にノーベル医学・生理学賞を受賞した本庶佑氏も、当時この部屋で研究成果の発表をした。確か、T細胞表面のIL‐4やIL‐5の遺伝子の塩基配列を解読した、というような内容だったと思うが、免疫とか受容体などの専門用語にちんぷんかんぷんだった。
仕方ないので、本庶教授の部屋に押しかけて4,5時間かけてようやく初歩的な事項だけを理解して書き上げた原稿を、他社の京都新聞ベテラン記者Kさんにチェックしてもらい、出稿した。しかし、わが国のアカデミズムが集結するともいえるこの場所は、自尊心をくすぐられた。有名な教授や研究者らにインタビューすると、全国版の「顔」や「人」欄に掲載されたので、いっぱしの専門記者になった気分だった。

現在の百周年時計台記念館の2階。左手辺りが記者室だった
右は現在の1階にある広報課

暇なときは麻雀をして過ごした。普段の日ならまあ、大目に見てもらおう。しかし、その日は違った。いつものように気も留めずにゲームに興じていた。うん?なんか、今日は周りの雰囲気が違うな? そうか、今日は入学試験だ。まずい! 試験会場は離れていたが、流石にその日はやめた。なんせ、総長室の真ん前やもんな。
新聞社は今と違って儲かっていた。本来は、阪急電車や市バスで通勤するはずだが、取材用のタクシーチケットが各自に配られていたので、しょっちゅうタクシーに乗った。朝、遅刻しそうになった時に、夜飲んで帰る時。“良き時代”だった。

記者の妻たちの「悪妻ニュータウン」

住まいは支局の総務担当者が見つけてくれた。というか、当時、新聞社は住宅公団と密約があったのか、記者たちが優先的に入居できるシステムがあった。大阪、神戸、京都勤務になると、会社は公団を勧める。いや、公団に入居させられた。藤原さん、松ちゃん、筆者は妻帯者だったので、京都市西京区の公団「洛西ニュータウン」(3DK)に入居させられた。うちは新婚で長女の出産を控えていた。夫らは取材と遊びで帰宅は深夜か未明。嫁さんたちで仲良くするように勧めた。
それが裏目に出た。松ちゃんの奥さんがうちに遊びに来た。当時、わが家ではカレンダーの横に勤務表を貼っていた。奥さんは「へえ、こんなのがあるんだ」と覗き込む。松ちゃんの勤務を目で追う。「あら、今日、あの人休みだわ」。妻はまずいと思ったのか、「警察回りだから、きっと休めないのよ」と。サツ回りには休日がないのが常識の時代だったから、嘘ではない。しかし、松本家はその夜、険悪なムードに包まれたらしい。後になって何度も松ちゃんに愚痴られた。
どの家も深夜遅い帰宅の夫ばかりで、夫婦仲が平穏無事なはずはない。なのに、夫どもは洛西ニュータウンをもじって「悪妻ニュータウン」などと陰口をたたいていた。毎晩、深夜零時を過ぎても、木屋町や祇園で飲み呆けていたのだから、妻たちの機嫌が悪いのも無理はない。
ともあれ、当時の京都支局は元気だった。ライバルは事件に強い神戸支局。若い記者も優秀な記者が揃っていた。一番若い2年目のサツ回りが現大阪読売編集局長のMさんと元編集局長の息子のFさん、3年生が取締事業本部長のNさん、4年生が京都総局編集委員のMさんと、後に医療専門家となるHさん。市役所担当がHさんで、宗教担当のNさん、府庁担当のTさん、遊軍にNさん。峰山、宮津、舞鶴、福知山、綾部、亀岡、田辺、綴喜の通信部にベテラン記者が常駐していた。今から考えれば、凄い布陣だ。
Mさんは当時から事件記者としての頭角を現し、バンバン特ダネを書いていた。Nさんは司法担当と遊軍を兼務。筆者も大学と遊軍兼務だった。暇があれば、斎藤氏に支局に帰るよう言われた。
斎藤氏のネタ取りは独特だった。一点集中主義ともいえるが、とにかく、ネタに目星をつけてから取材にかかるというものだった。「事件は待つのじゃなくて、自分で作るものだよ」。祇園界隈で飲むと、斎藤氏はそう、うそぶいた。不思議な特ダネに引き込まれる。(つづく

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