大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」14(松江番外編) 安富信

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保守王国、国会議席は自民・社会で分け合い

まだあった!政治というより選挙が。本当に申し訳ない。はたまた、前言撤回です。大阪読売は「事件の読売」を称していたし、「社会部の読売」でもあった。しかし、「選挙の読売」も謳っていた。「高校野球の読売」や「将棋の読売」「囲碁の読売」「事業の読売」、、、。要するに一番になれるなら、何でもなんだ、読売は。そういうとこは嫌いじゃなかった。
選挙に関しては、ことの外、細かかった。筆者が松江支局にいたころは、とにかく地方選挙に力を入れていた。
昭和50年代の島根県は国内でも典型的な保守王国だった。神戸に生まれて京都で大学時代を過ごした筆者にとって、政治や選挙にはそれなりに関心があり、ノンポリながらリベラルなつもりだった。兵庫県は旧社会党がそれなりに強い地盤でもあったので、松江に行って驚いた。これが、戦後の自民政権を支える保守王国なんだと。松江に赴任した昭和54年(1979)の衆議院議員島根選挙区(中選挙区定数5)は、竹下登(後の首相)、桜内義雄(元外務大臣)細田吉蔵(元運輸大臣、細田博之・現衆議院議長の父)(いずれも故人)の自民党大物3議員と社会党の2議員だった。

昭和59年当時の島根県選出国会議員。左から竹下元首相、桜内元衆院議長、細田元運輸大臣

ちなみに、自民党はもう1議席は取れるが、敢えて55年体制の名残というか、社会党に2議席を与えていた感じだった。もちろん、総評系の県評とか自治労が強い地盤で社会党は出雲部と石見部の東西の党の基礎票をきっちりと2分することで2議席を確保していた。

33歳、共産女性が躍進の初当選

しかし、この年の10月7日に驚くべきことが起きた。第35回衆議院議員選挙。共産党公認の中林佳子氏(76)が3位当選を果たした。細田氏が4位と後塵を拝し、社会党現職が落選した。竹下氏は10万票を超える悠々のトップ当選だったが、細田氏が下位に甘んじたことは、島根県を大いに揺るがせた。
中林氏は戦後生まれの弱冠33歳。とにかく明るく、「太陽のよし子」と呼ばれ一大ブームを巻き起こした。1年生記者が中林氏の担当だったが、選挙終盤になり「当選するかもしれない」と心配されて先輩記者に代わった。中林氏は8か月後の昭和55年6月22日の第36回衆議院選挙で6位に沈み敗れたが、その後も衆議院議員に計4回当選する実力者だ。

昭和54年10月の衆議員選挙で初当選した中林氏

ちなみに、前回4位に沈んだ細田氏は10万票以上を獲得して2位に、竹下、細田、桜内が上位を独占した。まあ、本気になればと底力を見せつけたのだろう。
ともあれ、事件記者を目指していた筆者はこの時、新たな目標を見つけた。「選挙も事件だ!」。新人から選挙を任されたと勝手に舞い上がっていた。衆院選でちょいと手伝っただけなのに。

町村議選、自宅を巡って顔写真200人

しばらくして町村議会選挙の取材が回って来た。松江市周辺の旧八束郡の8町村(現すべて松江市)を受け持った。非常に地味な仕事だ。まず、次の町村議会選挙に出る予定の候補者に取材に行く。それぞれの町村の現職議員を辞める議員、代わり出馬する議員らの自宅を訪れる。出馬するなら、履歴書などを記入してもらい、顔写真を撮る。簡単なようだが、これがなかなか大変だ。閉鎖的な土地柄、おいそれと“出馬”するとは言わない。それを押したり引いたりでようやく認める。しかし、顔写真をと言うと、「私は新聞に載るほど大層な人間ではない」と断られる。「出馬する人は皆顔写真が出ます」と口説いてようやく撮る段になると、女性の方は「お化粧直し」に奥に引っ込んだまま30分以上も待たされる。
そうこうするうちに、滅多に来ない知らない土地の風情、人情などを肌で感じ、結果的にその町の取材を深めることになる。当時の大阪読売がなぜこんなことをしたのか? いや、多分、これはオール読売の方針だったろう。当時の戦略、地方紙から部数を奪うための作戦の1つだった。この少し前に、全国紙としては朝日を追い抜いて全国でトップ部数となり、次のターゲットが、「打倒地方紙」だった。
そのやり口が出来るだけ、一人ひとりの読者に寄り添え!だろう。聞こえは良いが、地方紙のお得意である、死亡記事、出生届け、さらに、市町村議員にまで及ぶ顔写真掲載などだ。ここに読売が切り込んで行った。
時間と無駄な努力を惜しむことがなければ可能だ。ただし、全国紙記者のプライドを投げ捨てた行為である。筆者が獲得した町村議員候補の顔写真はざっと200枚。平均20~30人の立候補予定者×8町村である。もちろん、4年に1度の選挙だが、当時の島根県は57市町村、市町村議員候補は2000人を遥に超えただろう。

開票所、双眼鏡で票の束を数える

投開票日はさらに熱い。必ず開票所に出向く。大抵、町村役場近くにある体育館だ。双眼鏡を片手に観客席に陣取る。夜8時過ぎ開票開始だ。おおよそ2,3時間程度で結果は出るのに、なぜ、わざわざ開票所まで行かなければならないのか? 締め切り時間の問題だ。前にもこの連載で書いたが、大阪本社から遠くになればなるほど、締め切り時間が早くなる。それは、今もそうだが、大阪本社近くの印刷所で新聞を刷っているために、それだけ地方に新聞を届けようとすると、締め切りを早くしなければならない。
松江支局の場合、夏場は選挙で締め切りを延長しても、午後10時前後、冬場(雪などの影響で交通機関が遅くなる)は8時くらいなる。よって、午後10時選管確定(開票終了)では、ほぼ紙面に収容できない。そこで、生きるのが「票読み」である。票読みと言っても2種類あり、前以て各候補者の取得票数を予測することと、開票を見つめること。各候補の得票数は会場で順次発表されるが、時間差がある。そこで、実際に開票所に詰めて票を数えるのだ。
候補者ごとに100票か10票単位で積み上げられる票の束を双眼鏡で数える。もちろん非公式な数字だが、これをもとに当確を判断する。どの選挙でも残り2,3人が当選ラインギリギリなので、そこを見て支局に報告し、支局長や次席らが「当選」「落選」を判断する。この努力の差が、翌日の紙面に顕れる。例えば、読売は定数20に対し20人全員に「当」入れているが、朝日は18人、毎日16人。「勝った!」というものだ。今書いてみると、それがなんなんだと、侘しくなってきた。

田中角栄軍団69人、黒塗りの車列で山の町へ

もう一つ、政治絡みで忘れられない出来事がある。昭和59年4月21日、島根県飯石郡掛合町(現雲南市)の体育館で行われた町民葬に、田中角栄元首相と田中派の計69人が出席した。1か月前に竹下登元首相(当時、大蔵大臣)の父が死去し、この日葬儀が執り行われたのだが、角栄氏らはチャーター便で駆け付け、「空飛ぶ田中軍団」と新聞に大見出しが躍った。人口4000人足らずの山間の小さな町に、次々に黒塗り大型車が乗りつけ、テレビで見たことしかない政治家たちが焼香を挙げに来たものだから、報道陣が押し寄せ、大騒ぎになった。

葬儀に訪れた田中元首相(1984年)
記者の質問に答える竹下元首相(1988年)

角栄氏はこの10年前に発覚したロッキード事件をはじめとする田中金脈問題で、昭和49年(1974)12月に政権から退陣し、後に逮捕される(被告人として死去)が、田中派の領袖として政界に隠然たる力を保持していた。その力を誇示し、面倒見の良さをアピールする角栄氏お得意のパフォーマンスだった。竹下氏はこの翌年、権力闘争の末、田中派を受け継ぎ竹下派を立ち上げた。その竹下元首相も昭和63年6月に発覚したリクルート疑獄事件に連座したとして、翌年退陣した。

夜の町の政治談義も楽し

保守王国と呼ばれるこの地にも、国会議員を初めとして、県会議員、市町村議会議員に至るまで、権力闘争が好きな県民性も相まって、松江の夜の町で、政治の話をしながら酒を飲むのも晩年、楽しかった。
そうこうするうちに、田舎の小さな町の小さな権力闘争の末に漏れてきた町長の不正疑惑などもちょこちょこと出張取材したこともある。小京都として名高い津和野町議会百条委員会などを取材した。内容はよく覚えていない。晩秋で霧に包まれた津和野の街を歩いたことだけを鮮明に覚えているが。(松江番外編2おわり)(つづく

やすとみ・まこと
神戸学院大現代社会学部社会防災学科教授
社団法人・日本避難所支援機構代表理事
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