2021年7月16日から18日までの3日間、大阪市内にあるエルおおさかを会場に、「表現の不自由展かんさい」を開催し、延べ1300人が会場を訪れた。かんさい展を時系列で振り返ってみたい。
開催5か月前、大阪での「表現の不自由展」始動
2021年2月5日の夜、「表現の不自由展」の実行委員の一人岡本有佳さんから電話が入った。「平井さん、大阪に『少女像』を立てたいって言ってたよね。大阪で『不自由展』やりませんか」というものだった。聞くと、東京と名古屋でも開催を計画中とのことだった。
そう言えば2019年8月に中止になった時、私は後に実行委員になる友人たちとJR大阪環状線鶴橋駅前の居酒屋で「こうなったら大阪でやるしかないやん」と息巻いていたことを思い出した。
さっそく、そのメンバーらで連絡を取り合って、大阪での開催を決め、動き出した。と言っても、美術展を開催するノウハウもないメンバーだった。ただ、共通した思いは、芸術や文化、教育などに対する施策や援助を切り捨てつづける維新の会が支配する大阪で、この「不自由展」をすることで新しいうねりをおこせるのではないかという思いだった。
開催4か月前、会場利用への申し込みなど準備がすすむ
3月6日には、実行委員でエルおおさかに正式に会場利用の申し込みを行い、チラシの準備や参加するアーティストとのやり取り、東警察署やエルおおさかとも警備について協議するなど準備は順調に進んでいった。
6月10日になり、関西に先行して開催される予定だった東京における「表現の不⾃由展」が、卑劣な街宣活動により6⽉10⽇、予定していた新宿区内の⺠間のギャラリーが突然使⽤できなくなるという事態に陥った。
開催1か月前、突然の「会場使用の承認を取り消す」の通知
6月15日、「表現の不⾃由展かんさい」の開催を発表。それからエルおおさかに抗議の電話やメール、街宣が⾏われるようになった(電話は70件程度、街宣3回)。また、府議会議員が大阪府の担当部局に圧力をかける事態も発生した。
6⽉25⽇、エルおおさから突然実行委員に「会場使⽤承認を取消す通知書を内容証明で送りました」という電話が入った。慌てふためいて、その夜に実⾏委員数名で事情の説明を求めてエルおおさかの指定管理者に面談を申し込んだが、こちらが期待するような説明はなされなかった。開催日が7月16日と迫っているなかでの理不尽な会場使用取り消しに対して、法廷闘争しかないと考えた実行委員会は6月30日に、原告となり指定管理者を相⼿取り処分取消の本訴を提起するとともに執⾏停⽌の申し⽴てを行った。
開催3週間前、吉村知事「承認の取消しに賛成」を表明
エルおおさかが開幕までひと月を切る中で会場取り消しを行った陰には吉村府知事がいるに違いないと想像していたが、6⽉26⽇、吉村府知事は記者会⾒でエルおおさかの「取り消しに賛成」との意向表明した。また6月29日にも、吉村知事は、「極めて不快に思う人がたくさんいるのも事実で、安全な施設運営に支障が生じる可能性がある。」「センターには保育所や就業支援施設が入っている。子供や職を探す人がリスクを背負うのはおかしい。開始前でこの状態だから、現実に開始になったらかなりの大混乱が予測される。」と、あいトレ、東京展を引き合いに、「表現する側が自分たちの表現を正義だと思うのと同様、極めて不快に感じる人もたくさんいる。違法な活動はダメだが、抗議するなというのもおかしい。」と発言した
東京展が中止になる中で7⽉6⽇に開催した名古屋の「表現の不⾃由展」も、7⽉8⽇に名古屋市⽴のギャラリーで郵便物から「破裂⾳」がする事態を理由に名古屋市は実質上の中止を決めた。
開催1週間前、大阪地裁が承認取消しを<取り消す>
7⽉9⽇、⼤阪地裁(森鍵一裁判長)は、「警察の適切な警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情があるとはいえない」とし、執行停止決定の結論を出した。反対者の行動があることを理由に、適法な施設利用をする申請者に利用をさせないようにすることは許されないという立場に立って判決を出したと言える。
開催4日前、会場側が大阪高裁に不服申し立て エルおおさかに脅迫状と「サリン」と書かれた液体が届く
しかし、性懲りもなく7⽉12⽇、エルおおさかの指定管理者は、⼤阪⾼裁に即時抗告を行った。
その後、開催を求める立場から脅迫状が、「表現の不⾃由展実⾏委員会」などと名乗る差出人から展⽰会の実施を求める⼿紙とともに、「サリン」と称する液体の⼊ったジッパー袋の⼊った郵便物が届いた。
高裁に即時抗告をしていても、高裁判決が出るまでは地裁判決が生きている。実行委員会は、エルおおさか、東警察、日本郵便などと警備や郵便物の管理などに関して詳細に詰めていった。
開催前日、展示物の搬入が進む 高裁「会場側の不服申し立てを棄却」
7⽉15⽇、いよいよエルおおさかへの展⽰物の搬⼊の日を迎えた。
会場周辺は警察などが警備し、テレビ局や新聞社のメディアも押し寄せた。展示作業ももう終了するという夕方、⼤阪⾼裁(本多久美子裁判長)が指定管理者の即時抗告を棄却したというメールを弁護士からもらった。
内容は、「主催者が催物を平穏に行おうとしているのに、その催物の目的や主催者の思想、信条に反対する他のグループ等がこれを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことは憲法21条の趣旨に反するところ」と最高裁判例を踏襲し、「街頭演説や街宣活動が激化したとしても、暴騒音規制条例の内容に照らせば、一定の音量を超えた街頭演説や街宣活動等に対しては警察官や警察署長が暴騒音規制条例所定の命令を発することなどによって対応することが可能であること、警察により本件催物に対する適切な警備等がされること及び本件実行委員会との協議等を踏まえて本件センターの管理権を有する抗告人による安全確保に向けた対応も想定できることからすれば、これらによって防止又は回避することができない重大な危険が生ずることが具体的に予測されるとまではいえない。」というものだった。
緊張の糸が途切れ、涙があふれて実行委員同士抱き合って喜んだ。
会場側が最高裁に不服申し立て 吉村知事<使用許可取消し支持>
しかし、当日すぐに、指定管理者は最⾼裁に特別抗告。街宣車で乗り付け、近隣住民の生活を侵害しかねないような音量での街宣を行い、「表現の自由」を侵害する暴力的行為に対して、本来ならば、「反対だからと言ってそういった行動をとるべきではない」と強く抗議し、取り締まりを辞さないという強い姿勢を見せることこそが府知事としての責務であるにもかかわらず、吉村府知事は、無作為のまま使用許可取り消しを支持した。このことは、吉村知事がこういった行動をとる人々に加担していることに他ならない。
開催当日の朝、会場前には入場希望者の長い列 会場外では大音量の「開催抗議」
7⽉16⽇、「表現の不⾃由展かんさい」の開幕の日を迎えた。心配になった私は朝7時に会場についたが、すでに整理券を求めて並んでいる人がいた。そして、その横で大阪府の腕章を付けた人々がものものしく動き、警察もスタンバイをしていた。一体何が始まるのかという雰囲気で、とても美術展の開催会場とは思えない雰囲気だった。
9時になり、メディア関係者を入れ、私からこの展示の主催者としての思いやかんさいで行う意味などを話したが、人生でこれほどカメラを向けられ、インタビューされることはもうないだろうと思うほどのメディア陣の多さだった。
コロナ対策を考えて1時間に50人という人数を限定して整理券を配布して展示会は始まったが、1時間ほどで、当日券は完売し、遠方からの人やお年寄りなど整理券がなくなり入れない事態も起きた。会場の外では街宣右翼が車を大音量にして走らせ、道路を挟んだ向かい側から在特会などが抗議活動を行っていた。また、エルおおさか側の道路では、街宣に対して無言でじっと「表現の自由を守れ」「ヘイトをするな」などプラカを掲げ、立ち続け、座り続け、会場に妨害勢力が入ってこられないように踏ん張っている多くの人たちがいた。この人たちの無言の抵抗が、会場内の平穏を保障したと言えよう。
開催中に、指定管理者宛にペーパーナイフ様のものが⼊った脅迫状が届くということはあったものの心配するような事態は全く起きなかった。
最高裁、不服申し立てを棄却
そして、最⾼裁(宇賀克也裁判長)が指定管理者の特別抗告を棄却という知らせが入った。もう、大阪府も吉村府知事もエルおおさかもこの展示を中止させる根拠は何もなくなったのだ。こうして1日目を終了した。
開催2日目、実行委宛の不審な郵便物が届く
7⽉17⽇、「表現の不⾃由展かんさい」2⽇⽬。朝の段階で整理券は完売。ネット右翼、街宣右翼の抗議活動も盛んに⾏われていた。お昼前に、エルおおさかの指定管理者から実行委員が呼び出された。何事かと行ってみると、大阪府警が待ち構えていた。実⾏委員会宛の不審な郵便物があったが、新⼤阪郵便局でのX線検査をして留め置かれているとのこと。この不審物を開けて中身を調べてもいいかとの相談だった。名古屋の状況から予想していた展開だった。会場に郵便物が届けられることなく、安全を保てたのは名古屋で起きた事態を鑑み、事前に⽇本郵便と協議していたことが幸いした。
「もし調査の結果爆破物だったら、名古屋のように中止させられるのだろうか?」
そこからは、不安でたまらない時間が過ぎていった。
夕方5時、実行委員が再度呼び出された。大阪府警の調査の結果、爆竹のようなものが封筒の中に入っていて、開け方によっては破裂音がするものだった。差出人は「令和赤報隊」となっていた。
この結果を受けて、エルおおさかと実行委員会は個々に対応を考えることになった。
「エルおおさかの指定管理者はこの事態をどう考えるのだろう。中止を決めるつもりだろうか?」
この展示を妨害し、何が何でも中止させてやるという強い憎悪の黒い塊が後ろから追いかけてきて、飲み込まれそうな恐怖に包まれた。
開催2日目の夜、不審物対応の会議が行われる 会場側が「最後まで安全を期す」
夜の8時を過ぎてエルおおさかの指定管理者と実行委員会は会議を開いた。私は「明日の最終日、このことがあったから中止ということはありませんよね?」と指定管理者に思い切って聞いた。
「私たちは最後まで安全を期してやるつもりです」という返答があった。その言葉に、ほっとするとともに、へなへなと座り込みそうなくらい力が抜けていった。
7⽉18⽇、「表現の不⾃由展かんさい」最終日。朝8時半頃には整理券は完売。相変わらず街宣右翼は車を走らせ、路上では口汚いヘイトスピーチがくり返された。しかし、長時間のスピーチになれていないのか、同じ言葉の繰り返しと理屈も何もない罵声でしかなかった。16時に無事閉幕。長かった3日間が終わった。
なぜ大阪で開催できたのか?
実際、6月15日に取り消しの通知が行われたときは、こんな押し迫ってからどうなるのだろうと不安に駆られた。しかし、向こうが会場取り消しという正攻法のやり方で妨害してきたことに対して、こちらも裁判闘争という形で司法の判断をあおぐたたかいをしたことが功を奏したと言える。時間的には開幕までひと月を切っての状況だったが、弁護団が短期間で端的な法廷闘争を展開したことが上げられる。
一方、地裁・高裁・最高裁も非常に早い判断をし、府や施設管理者としてもそれ以上抵抗はできなくなり、逆に安全を保障するための措置を徹底せざるを得なくなった。事前に警察や日本郵便などへの対応を要請していたため、名古屋のような事態を防ぐことが出来たことも大きい。
そして何よりも多くの市民が大きな関心をもったことだ。
1300人以上が来場。朝から長蛇の列となり、最終日は午前8時半に整理券は完売した。しかし、すべての方に鑑賞する機会を保障できなかったことは申し訳ない思いだ。鑑賞できなかったにもかかわらず会場フロアまで来て、名前も告げずにカンパを置いていく方もいた。この展示会を成功させたいという支援の輪が広がっていくのを実感した。「開催する自由」や「観覧する自由」(これらは表現の自由として保障される。)に対し、それを抗議・妨害する側が、これらの自由を侵害するという構図が明らかになったことで、もはや中止などできない原動力になっていった。メディアの関心も強く、記者からの要請に主催者も弁護団も協力した。共同・毎日・朝日・NHKの記者が特に熱心に張り付いて取材をし、事実に基づく正確な報道を流したことが、市民が関心を持つことに大きく寄与した。また、この展示を成功させようとする個人が様々な形で府や施設管理者への要請を行い、なおかつ手弁当で多くの方が協力した。
情報公開請求でわかったこと 会場使用取消しは吉村知事の意向か
しかし、課題も山積だ。これほどまでのことをしなければ開催できないという事実を、今の日本の現実として認識しなければならない。かんさい展はすべての日程を終えることが出来たが、東京展はいまだ会場探しの途上であり、名古屋展も会期半ばに中止となっている。東京や名古屋では再開を目指し取り組みが続いている。一方、京都でも当初は京都の戦争展での展示を目指していたが、戦争展の展示会場とは別の会場で限定での公開を余儀なくされた。
「表現の不自由展かんさい」をはじめとする各地での取り組みは、改めて戦争の加害責任を否定するなどの歴史修正(改ざん)主義や排外主義、外国人差別などを映し出した。これらは私達に突きつけられた重要な課題である。
また、情報公開で入手した文書によれば、吉村大阪府知事は大阪府職員からの説明に対し、開催の方向で検討した痕跡はまったくなく、かえって会場ギャラリーの利用承認の取消しには吉村大阪府知事の意向が働いたことが強く推認できることが判明した。
長期にわたる自公政権、大阪における維新政治が歴史の事実に目をそむけ、排外主義を拡散した結果がこのような事態を誘引したことも忘れてはならない。
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