きっかけは映画師匠の脳梗塞
「風まかせ」のオープンは1998年。たしか8月やったような…
もう早や23年にもなります。
その直前、私の映画の師匠であって人生の師匠でもあった故映画プロデューサー前田勝弘さんが脳梗塞になり、少し後遺症が残りました。
その数年前には、わたしの育ての親というか、おばちゃんと呼んではいたが母親以上の母親であった叔母が徐々に老人性痴呆になりました。その頃はあまりよくわからず、いろいろ本を読んだのですが、結果脳出血で亡くなりました。
そのときのこともあって前田さんのときは「脳神経はたくさんある。一つの神経がなくなってもたくさんあり、これまでまったく使われていない別の神経がそれに代わるべく働きをするようになる。リハビリとはそれを即することなんや、そのために脳の刺激が必要」と私流に解釈。
前田さんは長いこと東京で映画の仕事をしていました。けど、連れ合いも失くしムスメさんも独立してひとり、とすると病気の前田さんがいくところはよくある「老人病院」では・・・。
いや、アカンあかん。
丁度その頃オーストラリア映画「ある老女の物語」の宣伝に携わっていました。
日本では老人の面倒は肉親がそれも「嫁」がするのが当然のような頃、オーストラリアでは一人暮らしの老女の世話するのが地域の看護師さん、看護師さんと老女の豊かな関係を描いた映画です。
すでに介護の社会化が進むオーストラリア。
介護保険は日本では2000年に初めて実施されました。
おばちゃんのこともあり、私は意欲的になんとかしたいとおもいました。
リハビリと宴を楽しむ居酒屋を
大阪出身の前田さん、高校まで過ごした大阪、聴き慣れた大阪弁、大阪の空気がいいのでは。
前田さんのこともよく知っている長年の友だちのパギやんこと趙博さんに相談しました。
その頃、私や趙博さんや前田さんもよく知ってる詩人の宗秋月(そうしゅうげつ)さんも脳腫瘍の手術してリハビリ中!
ならばニ人のリハビリができ、そしてその周りの私たちも気楽に集まることができ楽しめて何かがうまれる場所スペースをつくりたいね。
宗さんは料理が得意。それなら食堂で居酒屋がええんちゃう!!
一石三鳥!
場所は生野区に住む宗さんが通いやすいところがいいのでは。
構想はどんどん膨らんで・・・。
宗さんのムスコさんが不動産屋に勤めてて、JR玉造近く真田山に一階と二階の場所をみつけてくれました。
一階を店に。二階を前田さんの居住区に。
パギやんがいろんな人たちに協力をお願いする呼びかけ文を書いてくれました。
『脳梗塞と脳腫瘍、いまやトレンディーな病で倒れた2人のリハビリスペース、そしてみんながより集まり楽しめる場所、リハビリパラダイスをつくりませんか』
そんな内容でした。
前田さんの映画の先輩、土本典昭監督や黒木和雄監督はじめ、お友だち、たくさんの人たちの協力のもとにできました。
映画でリハビリ、ドキュメンタリーに
無理せんとしんどいことイヤ!
風まかせで生きていこよ〜
そうして1998年夏。
大阪の病院に入院していた前田さんが、できたての「風まかせ」の2階でリハビリ生活を始めたのです。
私の知人でフランス在住の映画ライター、和泉勇さんが日本に帰ってくるタイミングだったので、和泉さんにお願いしてこの夏の一カ月、「風まかせ」に同居してもらうことにしました。二人で映画をいっぱい見て映画の話をしてもらう。前田さんの表情はみるみる明るくなっていったのです。「風まかせ」を舞台にした二人の日々は、MBSのドキュメンタリー『映像‘90 シネマセラピスト』という番組が記録しています。
前田さん亡くなり……十三で再出発
あれから・・・もう早や23年??!!
2003年に前田さんが火事で亡くなりました。
そのときもみんなでお別れすることができ、写真家の牧田清さんが亡くなったときもみんなでお別れができました。
前田さんが火事で亡くなったとき、たくさんの友人が駆けつけてくれました。
東京からも前田さんの友だちの若い人たちが駆けつけてくれました。
「風まかせ」はこれでやめようかとおもいました。
そうしたらパギやんや東京から駆けつけてくれた前田さんの弟子のような杉本監督や荒垣くんが即座に「風まかせはこのまま続けよう!」
宗秋月さんも2011年4月に亡くなりました。
そして2014年1月に十三の今の場所に引っ越しました。
そのときもいまがやめどきかなぁとおもってたら、お友だちが「やめんとき、北方面へ引っ越したらどう?」
引越しなんておもいもよらなかった…
そういえば私は北摂方面の友だちが多い。
そんなある日、ナナゲイで想田和弘監督の「選挙2」の舞台挨拶がありました。
合間に小林章太郎監督の「かぞくのひけつ」でお世話になった十三の不動産屋へ行きました。
事情を説明して「梅田以外、中津、天六、十三で探してます。あっ家賃はもちろん安いのでお願いします」
いまの場所が、見つかりました。
内装は劇団維新派や映画の美術をしている長年の友だちの木工作家トヨやんこと豊川忠宏さんたち維新派の美術の人たちがやってくれました。
「お金ないんやろ?」とトヨやんが。「はい、ありません」
あるものをそのまま生かして内装工事をしてくれました。
今日までいろんな人が集まり、美味しい料理と酒をのみながら語りお喋りする楽しい空間へ現在進行形です。
「風まかせ」ソウルの舞台で上演
「風まかせ」をモチーフにした芝居「百年 風の仲間たち」が2013年7月に新宿梁山泊により上演されました。脚本はパギやん書下ろしです。東京、大阪で上演、なんとソウルでは1か月も上演されました。舞台セットは玉造の頃の「風まかせ」そのものでした。
ところで風まかせ、開店時に国金から借りたお金はとうに返済し、冷凍庫や冷蔵庫のローンもとうに終わり、酒屋さんの支払いも現金払いやから、いまのところ「借金」はゼロなんですギリギリのところで赤字にはならないいう、なかなかスリリングな毎月です。
でも「来て来て来て」とお願いメールをしたら、来てくれるお客さん、いやお友だちのみなさんとともに、このスペースを維持していけてるんです。コロナの緊急事態宣言のときは無理やってけど。
幸い大家さんもすごくいい人なので、これからもずっと建物は古いけど新鮮で豊かな風を感じることのできる空間であり続けたいです。
漫画「風まかせのカンコちゃん」
「月刊 風まかせ」誕生の記 編集スタッフ 文箭祥人
そして、「風まかせ」第2章が始まります。
23年間、いろいろな人が集う居酒屋「風まかせ」から新しいメディア「月刊 風まかせ」をネット発信します。
ある日、「風まかせ」で出来事がありました。
突然、中学校の先生平井美津子さんがMBSを早期退職した私に「月刊風まかせ、やりーなぁー!どうせ暇なんやし。書きたい人、いっぱいいてる」と声がかかりました。
そうです、「風まかせ」にやってくる人たちは、それぞれの分野で、自分自身の考えを持っている人たち。その人たちに、原稿を書いてもらって発信していこうと、平井さんの一声で「月刊風まかせ」は即決となりました。
それから、「風まかせ」店主の松井寛子さん(カンコさん)がマスコミOBやネットに詳しいネットメディアの人に声をかけて編集スタッフが集まり、「風まかせ」で編集会議を重ねました。
最初の編集会議で提案がありました。
「学生と一緒になってつくろう。オールドメディアと若者がコラボするメディアにしよう」と。マスコミ不信と言われる中、マスコミOBが学生たちとつながって発信しようと、これも即決となりました。
それから、カンコさんが原稿依頼の声をかけ、創刊号は3本の原稿が集まりました。
原稿を寄せていただいた筆者のみなさん、お忙しい中、ありがとうございました。「風まかせ」に集うみなさん、原稿をお願いすると思います。よろしくお願いします。
これから一緒につくっていく学生のみんな、よろしくです。
読者のみなさん、ご意見感想をどしどし送っていただければ、ありがたいです。よろしくお願いします。
コメント
コメント一覧 (6件)
強力な布陣の趣きで、なんだかワクワクしますワ。
久保先生の描いたカンコちゃん、めちゃ似てる! 玉造からの懐かしい日々を思い出しました。
かんこちゃん、「月刊風まかせ」創刊、おめでとうございます。
懐かしい前田さんの写真も出ていて、当時を思い出しました。
夫が入院中、かんこちゃんが病院にお見舞いに来てくれて、「風まかせ」を作りたいって、話していたことを思い出しました。夫もよく玉造のお店に若い人誘って訪ねていましたね。その夫が亡くなって来春で20年です。「風まかせ」もう23年ですか、素晴らしい‼️
かんこちゃんの周りの素晴らしい仲間や支えておられる方々の力ですね。30年目指して頑張ってください。
素敵な成り立ちだったんですね!また、行きたいです。
風まかせの23年の歴史、楽しく、懐かしく拝読いたしました。前田さんが火事で亡くなったのは残念でしたが、めくるめく波瀾万丈の人生だったのだと、理解しました。これからも、風に任せて、かんこちゃんにまつわるもの語りが語り継がれていくことでしょう。
創刊おめでとうございます‼️玉造の風まかせによく通いました‼️風まかせで出会った方が勤務していた学校のゲストティチャーになってくれました。映画や写真の面白さを教えてくれたのも風まかせでの出会いでしたカンコさんにも色々お世話になりましたカンコさんの半端じゃないネットワークとおばちゃん力、リスペクトしてます今、昔のように通えませんが、月刊風まかせ、楽しみにしてます