映画「私のはなし 部落のはなし」 言葉を聴かせ、内面の対話に導く 園崎明夫

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©『私のはなし 部落のはなし』製作委員会
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観客を「スクリーンの内側」へ

「部落問題」についての「新しい思考のかたち」を示した画期的なドキュメンタリー映画だと、まず思いました。
そして、こういう形での「部落問題」へのアプローチは、たしかに映像メディアでしかできないものだった!と気が付きました。
政治制度的には解消されているとされながら、根深くそれゆえに見えにくい現在の「差別」のありかたは、監督も言われるように、たしかに「はなすこと」でしか伝わらないのかもしれません。そして「はなすこと」を「きくこと」でしか「被差別」と「差別」の関係性はつながらないのかもしれないと気づかされました。
関係性がつながるとはこういうことです。
映画で話される被差別を体験してきた人たちの言葉を聴くことで、観客もまた必然的に自分の内面に問いかけることになります。たぶん、そうなります。
大抵の日本人にとって、「部落差別」という事象にまったく無関係の第三者ということはありえない。
そういう意味で、この映画は観客をいわば「スクリーンの内側」に取り込むことで成立、完成する作品だともいえると思います。
「部落地名総鑑」が大きな問題となった1975年ごろ、私は大学生でしたが、「部落差別」を歴史的な・社会的な問題、社会科学の領域で理解し対処すべき問題のようにとらえていました。自分の交友関係のなかにも、就職などで現実具体的な困難を抱えているらしい人もいたにも関わらずです。つまり、自分個人の問題として、差別の構造を捉えることがなかった。しかし、この映画を観た今の自分は、「部落問題」を自分個人のこととして考えることを余儀なくされる。
それは「新しい思考のかたち」を示す、圧倒的な映画の力というべきでしょう。

制度改革では解決できない「文化遺産」

©『私のはなし 部落のはなし』製作委員会

映画中に中上健次の「天皇制と部落問題は文化的遺産」という言葉が挿入されます。
ジャック・デリダとの対談はかなりややこしいことを話していて、私にはとてもわかりにくいのですが、おそらく「部落問題」は社会科学の領域で理解したり、国の政治制度の変革や経済改革で解決を探せるものではないと、中上健次は言っています。「政治で文化は変えられない」とも。
「部落問題」は「文化遺産」だから、これは日本人の精神、心の深層の問題であり、生活意識の問題なのだと。日本史を貫いて継承される「差別する側の文化(心)」に変化が起きない限り、差別は無くならないと。

「はなし」を聴くことが変革の手がかり

©『私のはなし 部落のはなし』製作委員会

そして、この映画は、その心の変革の手がかりは、差別に悩み続けてこられた人々の言葉、いまそこにいる彼ら、彼女らの「はなし」をまず聴くこと。そこにしかないのではと観客に気づかせます。
さらに、その「はなし」を聴いた自分(観客自身)の率直な心の声に耳を傾けること。そして、口ごもりながらも自身の内面で対話をすることへと観客を導きます。
映画に登場する人々の言葉と観る人々の心の言葉が交わされること、いいかえれば「スクリーンの内側」に観客が立ち会う関係を必然的に成立させることが、この作品の「映画にしかできない表現」の核心であり、かつてない画期的な表現だと思います。
そのあとは観客一人一人の、すなわち私自身の孤独な心の世界の問題でしょうか。
その意味でこの映画は、ある「はじまり」なのかもしれません。

ということで、ほんとうに画期的なドキュメンタリーに感動いたしました。

そのざき・あきお
毎日新聞大阪開発(株)Mエンターテインメント統括プロデューサー
5/21より、[東京]ユーロスペース、
[大阪] 第七藝術劇場、シネマート心斎橋
ほか全国の映画館で順次公開。
公式HP:https://buraku-hanashi.jp/
ツイッター:https://twitter.com/buraku_hanashi
フェイスブック:https://www.facebook.com/buraku.hanashi
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