映画「失われた時の中で」  園崎明夫

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サイゴンが陥落した年に大学生だった私には、ベトナム戦争を知る手段は主としてアメリカ映画でした。

©️2022 Masako Sakat

60年代末から70年代かけての「アメリカン・ニューシネマ」にもベトナム戦争の影響といえるものは当然ありましたが、戦場のリアルにせまるような作品は、いまだ(ドキュメンタリーは別としても)作られていなかったように記憶します。

戦争終結後70年代後半にマイケル・チミノの「ディア・ハンター」やコッポラ「地獄の黙示録」が相次いで公開されて、かなりの衝撃を受け、世の中もあらためて「ベトナム戦争とは何だったのか」と議論が盛んになりました。

80年代に至っても(スタローンやチャック・ノリスものはとりあえず置いとくとしても)オリバー・ストーン「プラトーン」やキューブリック「フルメタル・ジャケット」など、当時の錚々たる作家たちが描く、様々な映画作品から、自分の「ベトナム戦争」観のようなものが形成されていったように思います。90年代にも、香港でジョン・ウーやツィ・ハークが(いわゆる全盛期「香港アクション」の文脈の中ではありますが)、かなりの力作を発表していました。「ワイルド・ブリット」など、名作だと今でも思います。

しかし、いま坂田雅子監督のこの作品を観た後、あらためて思いなおしてみると、それらのアメリカ映画(や返還前の香港映画)作品(もちろんひとくくりにできるような作品群ではないのは百も承知ですが)は、アメリカという国家、あるいはその国に暮らす人々の、あの戦争の悲惨さについての、多分にナルシスティックな、もしくは個人的なトラウマから生まれた幻想(とくに「地獄の黙示録」は、ある種の幻想映画の名作でしょう)がその核となっている作品群だったのではないかとの思いが強くなっています。(もちろん、作品それ自体が映像表現としての高度な達成であることは言うまでもなくです)

©️2022 Masako Sakat

ひとことで言うならば、「失われた時のなかで」という作品は、ほぼ半世紀に及ぶ米国製「ベトナム戦争」映画を根底的に批判する(もしくは相対化する)力を持った作品だと言えるのではないでしょうか。別の言い方をするなら、我々が(おそらく大多数の日本人が)これまで持ってきた、あの戦争の判断軸(あるいはトータルイメージ)のようなものは正しかったのかどうかという問いに晒されざるをえないのではないでしょうか。

南と北に分断されて戦った「ベトナム」からの痛切な視点や、世界からほとんど死角に入っている、かの国にもたらされた災禍(しかも幾世代にもわたる)のあまりにも悲惨な現実、そしてそれをほとんど救済しようとしない(というか枯葉剤撒布との事実関係を認めることすらしない)超大国アメリカ(しかも敗戦国!)の粗暴きわまる戦略。いままで世界が描いてこなかった「戦争」の姿を、渾身の力で描いた監督に心から敬意を表したいと思います。

そういう意味で、「ベトナム戦争」映画史上、衝撃的に画期的な作品だと思います。

©️2022 Masako Sakat

さらに、この作品には、「希望」というものがほとんど描かれていない。ふつう、どのように過酷な「ドキュメンタリー映画」にも商業的に流通する「作品」として最低限どこかに「ハッピーエンドのごときもの」を、起承転結の「結」の部分に装着するものではないかと思いますが、この映画にはそれがない。私は、その「希望」がないことと、60分という上映時間にはあきらかに相関性があると思っていますし、また、タイトルの「失われた時の中で」の意味も、きわめて深いと思います。「失われた時を」「超えて」でも「生きて」でもなく、プルースト流に「求めて」でもなく、「取り戻す」でももちろんない。ただただ、「失われた時の中」にいることの無残な在りようを描いた作品だと、監督は言っているように思います。

そして、我々観客が、極端に短い上映時間の後、もし30分ばかりの時間があるならば、そして幸いにも「失われていない時」を生きているのならば、考えてほしい、なにか行動してほしいと、そのように語りかけているように感じます。「希望」は、皆さんの心の中にありますか、もうありませんか、と。

○そのざき あきお(毎日新聞大阪開発  エグゼクティブアドバイザー)

●上映情報

「失われた時の中で」

9/3〜第七藝術劇場

9/16〜京都シネマ

http://www.masakosakata.com/longtimepassing.html

なお、冒頭の写真のコピーライツは©️Joel Sackett

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