大阪のメディアを考える「大阪読売新聞 その興亡」29(社会部編5) 安富信

  • URLをコピーしました!
目次

「黒田さんの孫弟子」先輩記者は警戒

憧れの社会部で好スタートを切った。吹田市広報課が取材をやってくれ、自由に全国版の記事を狙えて上機嫌だった。ただ、社会部内の反応が変だ。微妙に先輩たちが筆者に遠慮しているというか、遠巻きにしているように感じた。普段は吹田市内にいるが、週に1度か10日に1度くらい大阪市北区野崎町の、梅田の中心街から東に徒歩15分ほどにある読売新聞大阪本社に上がる。
昭和62年(1987)当時は新聞各社とも記者には泊まり勤務があった。事件事故を取材する社会部はもちろん、総支局を管理する地方部をはじめ科学、文化、経済、運動各部、そして紙面づくりを担う整理部(当時)、校閲部も泊まり勤務をしていた。一晩にさあ、どうだろうか? 50人くらいが泊まっていただろうか。地方総支局にも1人か数人ずつ宿泊していたので、大阪読売だけで一晩に100人以上が泊まっていただろう。今はほとんど泊まっていないそうだ。
社会部の泊まりは、当番デスク(次長)、遊軍主任クラス(サブデスク)、遊軍、大阪市内回り、通信部員ら計5人ほど泊まっていた。夜間に火事や強盗、殺人などの事件が起きると、まず下っ端が現場に駆け付ける。大きな事件だと府警担当記者が出て来るが、概ね宿泊者で済ませる。大きな事件がなければ、午後7時頃から翌朝8時頃まで本社3階にある社会部の遊軍席(机が約10数あった)で待機する。朝刊の締め切り時間(午前2時前)が過ぎると、大阪の新聞社独特のシステム「最終版の新聞交換」がある午前3時ごろまで、軽く飲食してから仮眠をとる。社会部は円筒形のごみ箱を集めてその上に板を乗せ、新聞紙を広げた臨時の宴会場で酒盛りを始め、地方部は伝統的に近くの居酒屋に出た。
泊まりに行っても、2、3か月間は先輩たちが話しかけてくれなかった。なんでかな?と思っていたら、優しいF先輩が締め切り後の飲食時にこっそり教えてくれた。「君は京都で斎藤次席の教え子だったんだよな。みんな、それを警戒しているんや。黒田さんの孫弟子やないかと」。軍団崩壊から2年が過ぎていた。まだ後遺症が残っていた。黒田軍団については、この連載で何度か触れてきたが、まだよくわからない、という愛読者からの助言があったので、少し振り返ろう。

黒田軍団、「ドキュメント新聞記者」で脚光

そもそも、大阪読売社会部になぜ「黒田軍団」と呼ばれるエリート集団が誕生したのか。それは、大阪読売の生い立ち、昭和27年(1952)10月、東京のブロック紙だった読売新聞が、朝日、毎日の牙城に切り込んで大阪で発刊したことに原点がある。極秘に準備を進めていた故務台光雄氏らは、京都新聞からの39人を筆頭に神港新聞(当時)や大阪日日、産経新聞などから経験記者を引き抜いた。その12月に新卒1期生として故黒田清氏らが入社、遊軍記者からスタートし一貫して社会部畑を進み、類まれなる才能でのし上がり、昭和51年(1976)年45歳の若さで社会部長になった。同期に作家の故飯干晃一氏がいたが、後に作家になる。
黒田軍団と名付けられた理由は、昭和54年(1979)1月に発生した三菱銀行北畠支店人質籠城・猟奇殺人事件(いわゆる梅川事件)にあると言われている。42時間にわたる籠城中、記者たちが何も書くことがない状況で、「それなら自分たちの動きを書け」という黒田氏の発想で、「ドキュメント新聞記者」という新たな手法を生み出した。例えば、故津田哲夫記者が張り込み中に寒さを訴えたことに応えて、愛妻が「パッチ」を差し入れたり、別の記者は張り込みしながら昔の事件を思い出したりする様子をビビッドに書き、読者の反響を呼んだ。これに在京のマスコミが軍団と名付けたとか。ちなみに、筆者は春からの入社が決まっていた。もちろん、足手まといになると思って同期の記者11人は誰も取材に行かなかった。当たり前だ。しかし、黒田さんは入社式で、「誰か一人でも来ていたら、そのまま社会部に残してやろうと思っていたのにな!残念やね」と言った。しまった!
ともかく、黒田氏は次々に斬新な企画や連載記事を生み出した。特に昭和56年(1981)1月に発覚した、大阪の商社が通産省(当時)の許可を得ずに韓国への武器を輸出した「堀田ハガネ事件」(武器輸出疑惑)や、57年(1982)の大阪府警賭博ゲーム機汚職事件などで大々的なキャンペーンを張り、ゲーム機汚職を追ったルポ「警官汚職」で日本ノンフィクション賞、昭和60年(1985)には「戦争」連載で菊池寛賞を授賞するなどその名を高めた。

連載のカッコいいエピソードは「作り話だよ」

このほか、これまでの新聞の常識を破った社会面での大掛かりな年間箱物連載「男と女」「34年目の民主主義」「愛国心」などを打ち出し、夕刊では事件事故の背景を追った「事件を追う」連載(夕刊紙芝居と呼ばれた)など、そして、毎週月曜日の社会面には大きな「窓」を掲載し(正直言って、この「窓」に邪魔されて、記事が載らないこともあったのだが)、東京読売の紙面とは全く違った画期的な紙面づくりを推し進めた。それが、東京本社には癪に障ったのだろう。東京本社が本丸なのに、なんで大阪が注目される? 他にも様々な要因はあっただろうが、筆者は究極、男の嫉妬が黒田軍団を崩壊させた、とみている。この後、大阪本社内でもこの醜い「男のやきもち」を何度も見ることになるのだが。
この黒田軍団の連載の本質にがっかりしたことがある。京都支局で斎藤デスクと飲んだ時、「武器輸出の連載が一番好きですね。なんと言っても、冒頭で垂れ込み電話を受けるFさんがカッコいい」と言ったら、斎藤デスクは「あれは作り話だよ。連載に効果的に入るためだ」と事もなく言う。「えっ、嘘なんですか?それって、読者を騙してませんか?」と言ったら、「君は青いなぁ」と笑われた。

記者クラブで火事に遭う

閑話休題、吹田通信部の生活に戻ろう!と思ったが、新聞記者は現場が第一だということを思い出し、急遽、大阪読売新聞社会部吹田通信部があった吹田市千里山竹園付近と、吹田市役所に“取材”に行った。令和4年(2022)7月14日昼前。阪急宝塚から十三で京都線に乗り換え、淡路で乗り換えて千里線で5つ目の駅が千里山。うーん、懐かしいなあ!電車で来るの35年ぶりかな?

阪急千里線の路線図
阪急千里山駅周辺。右上に坂を上る
途中の公園。35年前と同じ噴水があった
千里山の坂を上り切った交差点。左手に通信部があった
左手角に居酒屋があった。ここで議論した。
2年前に襲撃事件があった千里山交番。

千里山駅を出て西に坂をゆるゆると上って約10分。上り切った交差点を右折して100mほど。左手に2階建ての通信部住宅があったが、今はない。娘が「なんで?」と聞いたプール付きの隣の平屋住宅はコンクリートの打ちっ放しになって芝生の庭が広がっていた。閑静な高級住宅街だ。角に飲み屋さんがあって、後に編集局長になったTさんと本社に原稿の打ち合わせに行った帰りの深夜、何度も寄った店だが、もうない。通信部まであと一歩なのに、ここで1時間も2時間も日本酒をあおりながら、将来の夢や新聞記者とは、を語り合った。
再び千里山駅に戻って電車待ちをしていると、金網フェンス越しに千里山交番が見えた。そう、2019年6月16日早朝、警官が刃物を持った男に襲われ、拳銃を奪われて重傷を負った事件の現場だ。警官は幸い回復したそうだが、その凶行を思い、そっと手を合した。
そこから3つ目の吹田駅を降りると見えて来た、独特の低層棟と高層棟の市役所庁舎が。しかし、高層棟は思っていたより低い。10階以上はあると思っていたが、9階だった。記者室は昔のまま2階にあり、隣に広報課がある。昼休みだったが10人くらいの課員がいた。記者室には現役の読売後輩T記者がいた。彼は奈良支局が初任地で、筆者が応援取材に行ったことを覚えていた。常駐しているのは読売だけで毎日と産経がたまに来るそうだ。名刺をもらったら、「社会部高槻通信部」となっている。吹田通信部は、今はないという。

高層棟と低層棟のある吹田市役所庁舎
昔のままの記者室
夕刊一面5段抜きの「火事騒ぎ」を体験

この記者室で貴重な体験をしたことを思い出した。火事に遭ったのだ。記事によると、昭和62年11月14日午前11時55分ごろの発生らしいが、よく覚えていない。昼休みの直前だったと思う。記者室にいた。他社は数人いたか? けたたましく非常ベルが鳴り響いたと思ったら、真っ黒な煙があっという間に記者室に流れ込んできた。煙はすうっと、天井近くから下がり、目の前が真っ暗になった。「これか!煙がグンと下がって来るって」。前に消防の取材で聞いたことがある。咄嗟に身をかがめハンカチで口を覆った。窓ガラスが見えたので、思い切り開けて2階の窓から3ⅿ下に飛び降りた。記事には「2階の職員100人が救助用布シートで窓から避難」とあり、「けが人はない模様」とあるが、筆者は足を挫いていた。1階の壁面の取り壊し工事中で、火花が何かに引火して黒煙が一階から上階に向けて煙突のように駆け上ったようだ。記事は自分で書いて夕刊に送った。一面5段抜きの扱いだった。
さて、絶好調の通信部生活だったが、やはり、ライバルはどこにもいるものだ。ここでは、朝日新聞のNさん。筆者より5年ほど先輩記者だった。Nさんは、事件や軽い話題ものは書かなかったが、硬派と呼ばれる記事は強かった。北摂のライフサイエンス関係などの硬派記事で何度か1面トップで抜かれた。強かった。しかし、Nさんは何故か、朝日の大阪本社や東京本社の中枢記者にはならなかった。それは、松江支局で淡水化問題に絡み何度も抜かれ、京都大学回りでも抜かれたS記者も同年代で同じような記者人生だった。なぜだろう? あんなに強いのに!それは、後に大阪市内回り(曽根崎担当)になった際、東京から転勤してきたおっちょこちょいのS記者がその謎を教えてくれたので、後述する。
それでも、そこそこ点数を稼いだ。この頃の記事を図書館で探すが、確か吹田市議会の海外交流関係の失敗と、茨木市内にあった病院の不正を書いたが、見つからなかった。社会部の先輩もやっと口をきいてくれるようになった。昭和63年3月中旬、ネソ(曽根崎)回りと呼ばれる市内回り記者のキャップに異動となった。

「50万円はちょっと高い授業料だね」

あっ、まだあった、「好事魔多し事件」が。確か、62年のクリスマスイブかその前夜、松江支局の後輩記者の真田さんと神戸支局のTさんと3人で、大阪キタで飲んだ。機嫌よく酔って歌って何軒目かのスナックで帰宅の車を呼んでもらった。待ち合わせの曾根崎署前に行くと、本社が契約しているタクシー会社と違う会社のタクシーが止まっていた。「違うようだから1000円でお願いする」と言ったら、運転手が「この忙しい時に待っていたんだ。もっと払え」と言う。カッとなった筆者はポケットの中に入っていた小銭を何枚か掴んで運転手に投げつけた。見事に彼の腕時計に命中してカバーが割れた。運転手は勝ち誇ったように、すぐ前の曽根崎署に駆け込んだ。
3階の取調室に連れ込まれた。後にも先にも取調室に入ったのは初めてだ。怖そうな刑事2人に事情聴取された。夜中の2時から4時ごろまで“取り調べ”は続いた。運転手は「慰謝料と休業手当だ」と言って50万円を要求した。刑事たちは「お互いに話し合って示談にしてくれ」と言ってようやく“釈放”された。後輩2人と未明の通信部に帰った。妻はあきれ顔で笑った。「50万円はちょっと高い授業料だね」。後輩たちはしょげながら帰った。申し訳ない。翌日、タクシー会社に謝罪の電話をしたら、運転手から報告が上がっていないという。同社に行き、担当者と改めて示談交渉した。10万円に値下げしてもらった。 (つづく)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次