腐る芋は豊作の予感
2021年7月23日、阿武隈山地の山あいの里、標高300メートルの旧東和町・布沢地区を訪ねた。斜面に折り重なる菅野正寿さん(1958年生まれ)の棚田は青々としている。日が陰るとカナカナカナとヒグラシのうら悲しい声が谷間にひびく。
石がゴロゴロ出てくるから「石子畑」と呼ばれる1反(10アール)弱の畑でじゃがいも掘りだ。
子どものころ、家庭菜園の芋掘りは楽しみだった。幹を引っぱると鈴なりの芋が出てきた。ピンポン球ほどの小さな芋は油で揚げて食べた。
生協などに出荷する菅野さんの畑の芋掘りはそれほど牧歌的ではない。
耕運機で畑を掘り起こし、表面に出たじゃがいもを拾ってバケツに入れ、米袋に集める。芋掘りというより「芋拾い」だ。
持参した軍手をはめようとしたら菅野さんはゴム手袋を貸してくれた。
「腐ってるのもあるから、長靴をはいてゴム手袋をつけた方がいいよ」
軍手の方が涼しいのに、と思ったが、掘りはじめると菅野さんの言葉の意味がすぐわかった。
1割ほどの芋は土中で腐り、どろどろに溶けて異臭を放っている。軍手では手が悪臭まみれになっていた。
梅雨の長雨のせいで例年にくらべて腐った芋が多い。なのに、菅野さん一家はニコニコ笑っている。
「昔から、じゃがいもがよいときは米がダメ、米が取れないときは芋があたる、って言われてるんだ」
冷害対策で雑穀や芋が広がる
阿武隈山地はしばしば冷害に襲われている。天明の大飢饉があった1783年には旧東和町と旧岩代町を中心に約千人の犠牲者が出た。その教訓から、小麦、大豆、粟、きび、えごまなどの雑穀を栽培し、冷害に備えてどの農家もじゃがいもをつくってきた。特産物(養蚕、葉煙草)や酪農、綿羊にも力を入れた。
じゃがいもは江戸時代初期の1600年前後にジャカルタ(インドネシア)を拠点にしていたオランダ人が長崎に持ちこんだとされ、救荒作物として寒高冷地を中心に全国に広まった。
東和地区ではじゃがいもをカンプラと呼ぶ。
江戸時代、布沢村などの名主をつとめた渡辺閑哉が、飢餓に備えるためじゃがいもの種芋を白河までとりにいった。カンサイさんがプラプラ歩いて持ってきたからカンプラとなった--と布沢では伝わっている。
一方、オランダ語のaardappel(アールダップル=大地のりんご)」が「あっぷら」→「かんぷら」に変化したのではないかという説がある。アップルからカンプラに音が変化するとはにわかには信じがたいが、宮城県や秋田県に「あぷらいも」「あんぷら」と呼ぶ地域があるから、オランダ語起源説が正しいのかもしれない。
先祖代々悩まされてきた冷害が最近はない。「平成の米騒動」と騒がれ、タイ米が輸入された1993年が最後だった。
冷害のかわりにここ4、5年はカメムシの被害が出てきた。
「温暖化の影響だな」と菅野さんは断言した。
降りそそぐ放射能、それでも芋を植えた
2011年3月の福島第一原発事故で放射能が降り注ぎ、畑の土壌からは1キログラムあたり4000ベクレルの放射性セシウムが検出された。地上高1メートルの空間放射線量は1~1.5μシーベルトだった(2019年春の東京は0.037μシーベルト)。
「やってみないとわからん。食べられなければ賠償を求めればよい」
東和地区の農民は4月に例年通り種芋を植えた。放射性物質は土の表面に集中しているから、耕して土をひっくり返して堆肥を投入した。
食品衛生法の放射性セシウムの暫定規制値は野菜類・穀類・肉などで1キログラムあたり500ベクレルだった(2012年4月からの基準値は100ベクレル)。
当時、若い人は地元で採れた野菜や米を口にしなかった。2台の炊飯器を用意して、1台はおじいちゃんやおばあちゃんのために地元米を炊き、もう1台は子どもたち向けに県外産の米を炊く家もあった。育てた米や野菜を孫に食べさせられないのがお年寄りには何よりつらかった。
7月に収穫したじゃがいもを計測すると放射性セシウムは10~20ベクレルにとどまり、道の駅で販売することができた。
「よかったぁ。これなら孫に食べさせられる」
喜ぶばあちゃんたちの顔が菅野さんは忘れられないという。
布沢地区では原発事故直後の2011年春は全戸が田植えをした。2012年は3割の家は米作りを断念した。その後、収穫した作物や土壌を徹底して計測することで、土壌の放射性セシウムが、稲や野菜に移行しないことが明らかになってきた。
セシウムは作物に移らず 「福島の奇跡」と専門家
そうした計測と営農を支えたのが、日本有機農業学会で知りあった野中昌法・新潟大学農学部教授(2017年死去)らのグループだった。
震災後、さまざまな団体や「専門家」から特殊技術や試行プロジェクトを提案された。放射性物質が抜けるという「マジックウォーター」を置いていく人もいた。反原発の専門家による「福島で食べ物の生産などありえない」「早く避難するべき」といった警告にもふりまわされた。
野中教授らは頻繁に現地に足をはこんだ。作付けの再開を迷う農家には「はじめてみなければなにもわからない」とはげました。
当時、土壌の放射性セシウムが野菜に移行する割合(移行係数)はチェルノブイリの経験から0.1と考えられていた。
菅野さんの田の土壌には1キロあたり3000ベクレルのセシウムがふくまれていたから、玄米に300ベクレルのセシウムが移ってもおかしくなかったが、実際は不検出だった。わらと籾殻は50~100ベクレルが検出されたが2015年にはこれも不検出になった。
長年稲わらや堆肥を投入してきた結果、放射性セシウムを固定する腐植含量と、作物への吸収を抑制するカリウムが供給されていた。阿武隈山系の土に多い雲母やその風化した粘土が、セシウムを土に固定する役割を果たしていることもわかった。
「肥沃な土づくりにはげんできた農民たちの力だ。この地に踏みとどまったお年寄りたちの営農の力だ」。研究者のひとりはそう評価し「福島の奇跡」と呼んだ。
一方菅野さんは、耕すことで、セシウムに汚染された土と地中のきれいな土が攪拌されたことが大きいと見ている。
「私に言わせれば『福島の奇跡』ではなく、耕したことによる土の力です」
いずれにせよ「農」の営みが放射性物質の作物への移行をおさえていた。「農業をつづけることによってかならず土も再生できる」とはげましつづけた野中教授の言葉通りだった。
布沢集落では原発事故から2年後の2013年春には全員が米づくりを再開した。全員で用水路の落ち葉や泥をさらい、黒いバッグに入れて仮置き場に運んだ。集落営農の共同作業が復活した。
だが、旧東和町全体では半分が耕作をやめたままだという。一度耕作をやめると田畑が荒れ、そのまま放棄してしまう人が多い。セイタカアワダチソウの黄色い花が田畑をおおい、そのうちに柳の木が生えて根を張ってしまう。そうなったら水田にもどすのは難しい。
米をはるかに凌駕する収穫量
芋を拾っていると、プチッ、プチッと何かが顔に当たる。テントウ虫だ。菅野さんは殺虫剤や除草剤をいっさい使わない。だから隣のトマトのハウスはテントウ虫だらけだ。
午後4時前、山の上に積乱雲がもくもくと盛り上がり、稲光が走った。ポツッ、ポツッと雨粒が顔に当たって心地よい。雨が降る前になんとか収穫を終えた。
収穫量は1トン強。この地域では米の収穫量は1反あたり7~8俵(1俵60キロ)だから、じゃがいもの効率は米をはるかに上まわる。2020年の全国平均では1反(10アール)当たりの米の収穫量は535キロ、じゃがいもは2010キロだった。
一般に古代文明が成立するには、長期保存と蓄積が可能な穀物が不可欠とされる。エジプトやインダス川流域は小麦、中国の長江流域は米、中米のマヤ文明はトウモロコシが基盤となった。
一方、南米アンデス地方のインカ文明を支えたのはじゃがいもだった。じゃがいもは穀物と異なり水分が多いからそのままでは貯蔵がきかない。アンデスの先住民族は、夜間の凍結と昼間の解凍をくりかえすことで乾燥させて「チューニョ」というフリーズドライの保存食をつくりだした。
インカ文明の基盤となった優秀な作物が、冷害に悩む東北の農民の暮らしを底辺で支えてきたのだ。
菅野さん一家が営む農家民宿「遊雲の里」の夕食は夏野菜がいっぱい。鮮やかなパプリカやトマトが入ったマリネ風の甘酢漬けがおいしい。にんにく味のきゅうりには大いに食欲を刺激された。
小さなじゃがいもの「みそかんぷら」
出荷できない小さなじゃがいもを活用する農家ならではの料理。
▽材料
・直径3センチ以下のジャガイモ 10個程度
・みそ 大さじ2
・砂糖 大さじ1
・みりん 大さじ1
▽作り方
①みそと砂糖とみりんを混ぜておく。
②ミニジャガイモをよく洗って皮のまま水からゆで、沸騰して2,3分で火が通ったら火を止めて、水を切る。
③多めの油で炒めたあと、①にからめたらできあがり。
夏野菜の甘酢漬け
夏野菜は何でも使える。じゃがいもや玉ねぎもおいしい。
▽材料
・パプリカ 1個
・ミニトマト 10個
・ズッキーニ 1/2本
・なす 1本
・酢 1カップ
・砂糖 1/2カップ
▽作り方
①野菜を適当な食べやすい大きさに切って、酢と砂糖で2、3分煮る。
②野菜は別容器で冷やしておく。
③食べる時に汁をかける。
にんにくきゅうり
大量に採れたきゅうりを、にんにく風味でむしゃむしゃ食べられる。
①きゅうり(2本)を長さ5センチに切ったあと、縦に1/4に細く切り、塩(小さじ1/3~1/2)を入れて混ぜる。
②しばらくおいて、みじん切りにしたにんにく(1かけ)を混ぜるだけ。塩辛ければきゅうりから出た水の一部を捨てる。(つづく)
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